パアララン・パンタオ2003

レティ先生、ヨリー先生へのインタビュー 

 レティ先生、ヨリー先生へのインタビュー。

Photo  レティ先生 「ヨリーは10年も前から私たちを助けてくれているのよ。ソーシャルワーカーとして、この地域の人たちのコミュニティをつくっていくために力を貸してくれて、いまはエラプ校の先生もしてくれている」

  ヨリー先生 「人々にはコミュニティが必要だったし、責任を果たせていたら嬉しいわ。一緒に仕事ができて幸せと思ってる。学校について言えば、一番大きな問題はお金の問題。もちろん私たちの能力の問題もあるけれど、十分に行き届いた教育ができているとは言えない。エラプ分校は、教室がとても狭くて、希望する生徒の3分の1しか受け入れられない。ローンの支払いも大変だけど、増築も必要と思う。日本の人たちの支援に助けられているのよね。それが頼りなの。ありがとう。感謝しています」

 ヨリー 「同じことを繰り返し繰り返し教えているわ」

 レティ「繰り返しが大事よ。記憶すること理解することが苦手の子が多いから。今日教えても、明日は何にも覚えていない」

 ヨリー 「子どもたち、遊んで働いて、疲れてるのよ。大人と同じように働いてるもの。エラプの人たちもゴミ山で働いてる。一晩じゅう、赤ちゃんを連れてゴミ山でゴミを拾ってる母親もいるわ。子どもたちも。通りや家の近所でゴミを拾ったりしてる。それに家庭が不安定なのも問題。親たちは離婚したり再婚したり。子どもの教育のことは考えてないわ。子どもを祖父母に預けっぱなしにして、マニラに働きに行ったまま帰ってこなかったり」

 レティ 「子どもにとって、ここは危険な場所。ゴミ山も危険だけど、ほんの小さな子もゴミを拾ってる。家庭が危険な場所になることもある。家庭崩壊は深刻な問題。義理の娘をレイプする父親だっているんだから。親たちにも教育が必要なのよ」

photo by Kayo S.

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バスケットコート

Photo_4  クリスマスのあともしばらく滞在していたカヨちゃんが、写真と、先生たちへのインタビューの動画を送ってくれた。学校の裏庭にあったバスケットコート。後ろに見えるのがゴミの山。

 バスケットコート裏の小屋は、隣人たちの宿泊所。2000年のゴミ山崩Dscn3478 落惨事のあと、学校裏にあった家々は取り壊され、人々はモンタルバンへの移住を強いられたが、仕事がないので、ゴミ拾いに通ってくる。行き来のジプニー代も大変なので、夜、学校の前のテラスで寝ていたら、警官に追い立てられた。それで、レティ先生は、隣人たちのために廃材の小屋をつくったのだった。5万円ほどの出費だったと記憶している。エラプ校の先生をしてくれているテリーさんも、ときどきゴミ拾いにやってきては、ここに泊まっていく。ひょうひょうとして朗らかなテリーさんは、レティ先生にとって、いつも傍らにいてくれる心優しい隣人だ。

 いま、こういう写真を見ると、郷愁に似たものがこみあげてくる。このバスケットコートも、小屋も、むろん学校も、数年後、ゴミ山拡張のために、ゴミのなかに埋められてしまって、もうない。

 このバスケットコートで、子どもたちと遊んだ。学芸会の前には、歌やダンスの練習をした。一時期学校で暮らしていたアナが、ここにたらいを出して洗濯をしていた。私がゴミ山にのぼったあとの臭いシャツも、洗ってくれた。自分が洗濯するから、脱いで、ここに出せと言ったときの、仕草や表情を思い出す。アナは、どうしているだろう。ほんとうにたくさんのことを思い出す。夕暮れ、子どもたちと一番星を見上げた。留学生たちが、子どもたちに追い回されて、息をきらせていたこともあった。

photos by Kayo S.

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遠足&クリスマス・パーティ 2003

Photo_5  12月6日は校外学習。バスに乗って、タール湖畔の景勝地タガイタイまで遠出した。留学生たちもボランティアで参加。バスを借り切っての遠足。バスのなかで、小さい子たち、何人も吐いたらしい。子どもたち乗り物に慣れていない。ジプニーで近くの市場まで行くぐらいはしても、その向こうに行くことはなかなかない。はじめてバスに乗った子も多かったはず。たいへんだが、いい経験になったと思う。ふだん、ゴミの山しか見ていない子どもたちに、美しい土地を見せたい、ということで、実現した遠足。宗教施設の広い敷地で遊ばせてもらった。

Photo_2 03 12月20日はパヤタス校、21日はエラプ校でクリスマス・パーティ。日本の留学生や青年協力隊のメンバー、国内の友人たちも参加して、ゲームや手品、人形劇、ダンスや歌、などなど。もちろんプレゼントも。

エラプ校ははじめてのクリスマス。庭に手作りっぽいクリスマス・ツリー出現。 お昼ごはんは、ジョリビー(フィリピンで人気のファーストフード店)のハンバー ガー。

Dscn3466 レティ先生、この頃から、足が痛みだすようになったらしく(今も足をかばうように、そっと歩く)エラプ校のパーティでは、足にギプスをしていた。

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photos by Kayo S.

【追記】

 タガイタイでは、施設の方が、ミリエンダ(おやつ)をたくさん用意して待っていて大歓迎してくれたそうです。

 クリスマス・パーティでは、青年海外協力隊の方たちが、なんとタガログ語で「3匹の子豚」の人形劇をやってくれました。「たどたどしくて、子どもたちは最初笑っていましたけど、そのうち真剣に見入ってました。」オオカミの人形がないので、ライオンの人形をオオカミのかわりに使った、とか。

 この年、マニラに滞在していたミオちゃんが教えてくれました。(遠足とクリスマス・パーティのお手伝いもしてくれました。)

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2003年8月

 古い資料の整理がてら書いているので、話は前後することも。

030806_3  太田君が送ってくれた写真によると、03年8月6日は大雨。パアララン・パンタオ(パヤタス校)の前の道を通るゴミのトラックがしぶきをあげている。トラックの上にも後ろにも、ずぶぬれの少年たちがはりついている。ゴミの積み下ろしの仕事をしているのだ。見るからに危険なのだが。

 030806_4 Dscf0022Dscf0021   

 

 道が舗装されたのは、ほんの前年のことで、それまでは、毎日数百台のトラックが通るので、土の道はどんどんえぐれて、雨季は、道を向こう側にわたるのも、大変だった。ビニール袋を靴の上からかぶせて、使い捨ての長靴にして、ぬかるんだ道を渡ったものだ。帰りのために、カバンにはビニール袋2枚を入れて出た。大雨が降ると、道は川のようで、茶色い水が音を立てて流れた。「ビューティフル・パヤタス・リバー」と、ずっと以前にベイビー先生が言った声が、いまも耳に残っている。美しいパヤタス川。

Dscf0082 Dscf0068  エラプ校の最初の教室は三軒長屋の一部屋だった。5年後の今、ここには3階建ての立派な校舎が完成している。8月7日学校説明会の日。Welcome!

photos by Seiichi O.

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エラプ分校開校

Payatas_erap  2000年7月10日、パヤタスのゴミ山が崩れて数百人もが亡くなるという大惨事があり、パアララン・パンタオの生徒も23名が犠牲になった。その後、多くの人々が隣のリサール州モンタルバンの再定住地(通称エラプシティ)へ移住したが、移住後、就学の機会を失ったままの子どもたちも多くいて、住民たちは、近くにパアララン・パンタオのようなフリースクールが欲しいと言っていた。

Photo_6  そこでレティ先生は、エラプシティにある空室(3軒長屋の1室)と隣接の空き地を買い取り、分校を開校する決意をした。カヨちゃんからの連絡によると、代金は今年中に一括で払えば安くて済むという。しかし、100万円に満たない額であっても、私たちにはとても一括で払える金額ではない。無理して払えばその後の学校の運営が立ち行かないだろう。来年からの5年のローンにする。

Photo_7  7月28日から入学手続きを開始。8月7日に説明会。約50名の親子が参加した。8月11日から、午前中のみクラスがはじまった。7時半から9時半までがデイケア(4・5歳、32名)、9時半から12時がレベル1(6・7歳、27名)。教師はレティ先生のほかに、彼女の古くからの友人のヨリーさんとテリーさんが手伝うことになった。

 教室は8畳くらいの広さだろうか。ふつうの家の1部屋である(そしてここでは1部屋に1家族が住んでいる)。そこに小さいとは言いながら30名もの子どもがひしめくのだ。授業がはじまると、狭い教室には熱気がこもって蒸し風呂のようになる。扇風機が欲しいが、分校にはまだ、電気も水道もない。
 教師の給料も十分でなく、課題はたくさんあるのに、分校のための予算は何も準備できない。それでもクラスははじまり、レティ先生は、入学を待っている多くの子どもたちのために、隣接した空き地部分にも校舎を増築するつもりでいる。

Photo_8  8月22日、カヨちゃんや、日本人とパキスタン人の留学生たちが、ペンキを購入し、分校の校舎の壁を、薄い黄色、水色、ピンクで塗った。学校は明るく、よく目立つようになったので、迷わずに行けるようになった、とカヨちゃんがメールをくれた。
 この年、学校が2校になって忙しいレティ先生を助けるために、息子のジェイコーベンは、しばらく仕事を休職して、パアララン・パンタオの先生をしていた。

photos by Kayo S.

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2003年新学期

Photo_9  6月、新学期がはじまった。パヤタス校は3歳から16歳まで85名の生徒が登録。午前中はデイケア(3・4歳、21名。マリアペレ先生)、レベル1(5・6歳、22名。ベイビー先生)、レベル2(7・8歳、16名。クリスティーナ先生)のクラス。午後はレベル3(9歳以上、10名。ベイビー先生)、レベル4(9歳以上、16名。クリスティーナ先生)のクラス。レベル3と4は能力別だ。

 教室の机が新しくなった。椅子に小さな机がついたかたちのプラスチック製の軽いものをたくさん寄付してもらったのだ。ひとりひとり個別の椅子と机で勉強できるようになった。

 給食は中断したまま。エラプ分校を開校するので、新学期からの再開も見合わせている。

 奨学生はふたり。マリージョイ(17歳)が、カレッジの教員養成コースへ進学。ベイビー先生の長女のジョイ(17歳)がハイスクール4年に進級。
 ずっとパアララン・パンタオで勉強してきた女の子たち8人ほどが、公立小学校に通うことになった。編入試験の制度が変わって、ハイスクールへ編入するには小学校の在籍証明が必要になったのらしい。リンリン(13)とロレン(11)の姉妹も、ジョシエル(13)もメリッサ(15)も、それから01年に心臓の手術をしたグレース(14)も、体調も安定しているので通うことになった。みんな小学校1年生だ。

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ホームページ

Photo_10  02年夏以来、私は数年間パアララン・パンタオを訪問することができなかった。妊娠・出産・育児のためなのだが、その間、学校の変貌は激しかった。

 学校の様子は、手紙やメールで、それから、以前の留学生のカヨちゃんや、チエちゃん、太田君たちが再訪してくれたり、毎年の留学生が連絡をくれたり、05年から2年間ほどは、ご主人の仕事の関係でマニラに在住することになったナオちゃんが通ってくれて、知ることができた。メールでやりとりできるようになったことは本当にすてきだ。

 思えば、はじめてパヤタスを訪問した94年当時、学校には電話もなかった。パヤタスに電話線は通っていない。一番近い公衆電話まで歩いて30分ほどかかった。96年に留学していた太田君が帰国のときに、自分が使っていた携帯電話をレティ先生にプレゼントしたのがパアララン・パンタオの最初の電話だった。それからインターネットが急速に普及して、パヤタスはインターネットはできないが、街の会社で働いているジェイコーベン(レティ先生の末息子)とメールのやりとりができるようになり、以来、レティ先生への連絡は彼が中継してくれている。

 03年8月、パヤタスに行けない夏、夫に頼んで、パアララン・パンタオのホームページをつくってもらった。http://kazu900.hp.infoseek.co.jp/index.htm

 94年から02年までの訪問のことは、読み物のページの「ゴミの山で生きて、学んで、笑って」を見てください。

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