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2008年12月

マリーグレースの進学

Photo_2  1988年10月5日の朝。ゴミの山で、捨てられた赤ちゃんを見つけたスカベンジャーが、レティ先生のところに連れてきた。レティ先生は赤ちゃんの汚れた体を洗った。近所の人たちがミルクやおしめをもってきてくれた。赤ちゃんの具合が悪そうなので、レティ先生はゴミのトラックの運転手を説得し、大雨のなか、ゴミのトラックで赤ちゃんを病院に運んだ。そうして一命をとりとめた女の赤ちゃんを、レティ先生は、マリーグレースという名前をつけて、養女にした。

 グレースが、2歳のとき、心臓に小さな穴があいていることがわかった。手術が必要だが、お金がない、という状況がずっと続いた。レティ先生は市長にも、手術が受けられるようにお願いの手紙を書いたりしていたが、がんばってください、と言われただけだった。2か月に1回、病院に検査に行く。それはもう1日がかり。5分の診察のために、半日並んで待つといった感じ。レティ先生は学校があるので、なかなか連れていけない。そういうとき、かわりに連れていってくれるのが、近所のテリーさんだった。

Photo  小学校に通わせるのも不安なので、ずっとパアララン・パンタオで勉強していた。夜は、デイケアの子どもたちが使う低い大きな机をふたつ並べたのが、グレースのベッドになった。その硬い木のベッドで、まだ小さいグレースと(でも足のサイズは私より大きかった。たぶん、ふだんゴム草履で、靴をはかないから、のびのび成長するのだろう)一緒に寝たとき、夜中に2度も顔を蹴飛ばされた。その話を、何年も何年も繰り返して、私たちは笑ったのだが。(その机は、いまエラプ校で使われている)

 グレースが11歳のとき、心臓の穴がすこし大きくなっているのがわかった。もう手術をしたほうがよかった。ゴミの山で赤ちゃんが見つかることは、何度かあったらしい。たいてい死んでいるが、まれに生きていることもあり、でも、そのまま放置されて死んでしまったりした。学校の横の椰子の木の下には、死んだ赤ちゃんが埋められている、という話だった。そんななかで、奇跡的に生きのびたグレースを、もっと生かしたい。学校の資金とは別に、日本で寄付を募ることにした。数ヶ月後、グレースの手術の日程が決まり、そのころ、必要な金額だけは、なんとか寄付も集まっていた。

 2000年3月、ゴミの山の自然発火の炎が広がり、山が大火事になった日に、グレースは病院に入院し、2度の手術を受けた。入院中、つきそいのベッドなどはないから、レティ先生とテリーさんは、交代で、自分の靴を枕に廊下で寝ながら、つきそいしたらしい。手術は成功し、(助けてくださったみなさま、ありがとうございます。)術後も良好で、2003年には、公立の小学校に通いはじめた。

 一度学校で倒れたことがあり、体力が続かないので、通うことをあきらめ、パアララン・パンタオでの学習に戻ったが、それから体調も安定し、小学校卒業認定の試験に合格し、05年、16歳のグレースは高校生になった。レティ先生一家のサポートで、スクールバスで通える私立の高校に通っている。でも無理して勉強したりしないように、学校の先生にも、グレースにも言っているんだと、レティ先生は言っている。

 2008年現在、グレースは高校4年生。(フィリピンは、中学校がなく、小学校6年のあと、高校4年)、大学受験の真っ最中。

(写真は1996年7歳のグレース。と、彼女の落書き)

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奨学生たち 2005

Photo  奨学生が増えた。まず大学生たち。ユージンとマリージョイのロトル兄妹は、それぞれ進級し、ジョイとマリベルも進級した。そのほかに、新しく4人の女の子たちが大学に進学した。マリッサ、エルビー、チェリー、リオの4人。夏休みにパアララン・パンタオを訪問していたチエちゃんが、みんなの写真とプロフィールを送ってくれる。

 「23歳のリオは、やっと大学1年生になることができた。高校卒業後の経済苦により、6年間ほど働いたり、家族を手伝ったりしてきた。スカベンジャー(ごみ拾い)をしていた時期もある。2000年のゴミ山崩落事故のとき、友人を亡くし、かなりのショックを受けた。父は以前はアル中だった。兄2人と姉がいるが、そんな父を嫌がって、みな早々に結婚して家を出て行ってしまった。現在、父はアル中ではないが胃が悪く、思うように働くことができない。仕事はスカベンジングだ。稼いでも、1日に100ペソくらい。母親も足を怪我したため、あまり働いていない。リオは「きょうだいは皆家を出ていってしまったけれど、私は両親を手伝いたい。とにかく大学を出て、一人前の大人として家にいる権利を持ちたい」と言っていた。「卒業したらまず会社に入って、将来は自分でビジネスをしたい」頬を紅潮させながら、嬉しそうに語ってくれた。」(大野千英)

Photo_2  そのほかには、クリスティーナ先生の娘のウィルマリーが、ハイスクール4年に進級した。ジョシエル、リンリン、ロレイン、アーシェル、ジュリーアンの小学生たち5人もそれぞれ進級した。
 個人のスポンサー(2人)、スイスのグループの支援(2人)、ほかが、私たちの支援。この年、年間の奨学金(学費+交通費)は、大学生がひとりあたり7万円~14万円。高校生は3万円、小学生は1万円ほど。

 
(写真はパアララン・パンタオ、パヤタス校)photos by Chie O.

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2005年新学期

Photo  2005年6月。

 2005年の新学期がはじまった。

 パヤタス校は、92名の生徒が登録。午前中は4、5歳児のクラス(28名)と、6、7歳児のクラス(29名)。午後は、8歳~10歳児のクラス(18名)、11歳以上のクラス(17名)。

 

Photo_7  ジェーン先生、レイナルド先生、ヨリー先生、ジュリアンが 担当している。レイナルドとジュリアンのふたりは、パアララン・パンタオの最初の奨学生として、大学へ進学・卒業した。ふたりとも優秀な成績で卒業したが(レイナルドは最優秀の金メダルをもらった)、就職口が見つかっていなかった。

 レイナルドのガールフレンドに赤ちゃんが生まれた、という話を聞いた。お父さんになったのか。仕事が見つからなくて、レティ先生に相談しにきて、教師をすることにしたのだろう。彼もジュリアンも、本当は船乗りになりたくて、専門の大学に進んだのだが。コネがないと仕事を見つけるのは難しいらしい。ゴミ山の子どもにとっては至難だ。

 (卒業して間もないころ、お金があれば、口をきいてくれるところがある、という手紙をレイナルドからもらったが、就職のコネのために、送金できるゆとりはないし、彼だけを特別扱いするわけにもいかない。断った。いくらだったろう。かなりの金額だった)

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 増築工事で、教室が広くなったエラブ校では、210名もの生徒が登録した。増築工事で、1階部分が広くなり、2階もほぼ完成した。その後、資金不足で中断しているが、最終的には3階建てになる予定。(でもいつ完成するのか、見当もつかなかった。もともとの土地と建物のローンの支払いも大変だった。) 

Photo_10   エラブ校では、午前中は4歳児(64名)と5歳児のクラス(73名)、午後は6歳児(48名)と7歳以上(25名)のクラス。ジン先生、クリスティーナ先生、テス先生、エルサ先 生、テリーさんが担当している。

 (ジン先生は、パアララン・パンタオの設立当初から、教師のトレーニングなどの支援をつづけてくれているチルドレンズ・ラブというNGOから派遣されてきている。カリキュラムの作成や、土曜日のアートクラスを担当している。)

 94年からずっと、学校の先生を続けていたベイビー(レティ校長の長女)が今年はいない。給料が安いので、ついに嫌気がさして、ほかの仕事をはじめたのらしい。スカベンジャーたちに食事を提供する仕事、と聞いた。

Photo_11  シンガポールのグループの支援で、給食は続いている。パヤタ ス校はジュリアンが、エラブ校はテリーさんと生徒の親が、調理を担当している。

photos by Chie O.

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移転問題

2005_jan_13_042  2004年暮れから、パアララン・パンタオ裏の空き地にブルドーザーが入って、大きな穴をあける作業をはじめた。2月のはじめには、穴は10メートルほどの深さにもなった。その穴に新しいゴミが運びこまれ、スカベンジャーたちも集まって働いていたが、1か月もしないうちに、穴はゴミで埋まった。その間、学校はゴミの臭いがすごかった。たぶん、蠅も。

16  2000年の崩落事故のあと、モンタルバンに移住させられた隣人たちが、ゴミ拾いに来たときに泊れるように、学校のすぐ裏につくっていた小屋は、バスケットコートの上に移動させられた。(写真は小屋を移動する前のバスケットコート)

 POGのプロジェクトにより、移転させられる家が出てきている。パアララン・パンタオにも移転の話が来ている。まだ具体的な日程や移転先は決まっていないが、そんなに先の話でもないようだ。

 ゴミの山は砂時計のようなかたちに、ふたつの山をつなげたかたちに広がっていて、学校はちょうど砂時計のくびれたところにある。このくびれの部分を埋めて、ゴミ山全体をひとつにつなげ、なだらかにする、という計画らしい。

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127_quezon_4_3  クラスは続いている。変わりなく。ゴミの臭いの襲ってくるパヤタス校でも、増築工事の遅々としてすすまないエラプ校でも。

photos by Chie O.

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ゴミ山を取り巻く人々 ③パヤタス・オペレーション・グループ(POG)

『ゴミ山を取り巻く人々 ③パヤタス・オペレーション・グループ(POG)

2005_feb_050  パヤタス・オペレーション・グループとは、パヤタス地区を総括しているケソン市の組織である。主な役割は、①ダンプサイトの監視、経営等の包括的管理、②パヤタス地区の安全なゴミ集積場として維持する、③住民の暮らしを援助する、の3つである。いわばゴミ山を囲むパヤタス地域の全てを取り仕切っているのが、POGである。POGは2000年7月の崩落事故後の11月につくられた。ゴミ山へ続く下り坂の入り口に、小さいがとてもきれいな事務所を構えている。現在、従業員30名とセキュリティーガードマン120人で構成されている。

 セキュリティーガードマンは、ゴミ山とその周辺の各ポイントに配置されており、ゴミ山からの発火防止の監視、子供の立ち入り禁止の監視などである。彼らのほとんどはバランガイ(地区の最小単位)から選出されたボランティアか、元国軍であるPOG役員のつながりで雇われた元軍人たちである。彼らは12時間ごとの3回のシフトで働いている。例えば朝の6時から夜の6時まで働き、次の任務は12時間後、というように。POGによると、彼らは政府による雇用ではなく私的な雇用であるので、最低賃金の月収7000ペソを支払われている。

2005_feb_037  ゴミを運んでくるトラックは、ゴミ山へ入る際にPOGへお金を払わなければならない。10ウィールトラックは150ペソ、6ウィールトラックは100ペソ、ミニトラックは80ペソである。ちなみに、ゴミ山を整備するコントラクタートラックは300ペソを払わなければならない。1日にやってくるトラックの数は平均450-480台。1年ほど前までは約500台であったが今は減っているという。その減少の原因は、ゴミの量の減少、様々なプロジェクトのためにバランガイによってリサイクルできないものだけがダンプサイトに運ばれる仕組みになったこと、などがある。主なトラック会社は5つあり、そのうち最も多い会社からは1日に約200台のトラックが来る。トラックによっては1日に2、3往復するものもある。

2005_feb_049  現在、POGによってゴミ山を利用した様々なプロジェクトが進められている。そのうちの1つは、ゴミ山の形状変化プロジェクトである。まず、現在60-70度の傾斜を20-30度に変え、ゴミの上に土をかぶせて傾斜の安定性を図る。また、崩落などの事故を防ぐために10メートルごとに斜面を削り、階段状にする。また、浸出水集排水設備プロジェクトも進められている。また、ゴミ山から自然発生しているガスをパワーとして使うプロジェクトも進行している。

 POGによると、2007年に現在のゴミ山を閉鎖し別の場所へゴミ集積場を移動させる方針でいるようだ。移転が近くなれば、住人などへの生活面へのケアはする、ということであった。最近では。がけの近くに居を構えていた42世帯が移転させられ、現在、政府が一時的な住居を提供しているそうである。』

以上「パアララン・パンタオとパヤタスの記録」(大野千英)より。

photos by Chie O. 

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ゴミ山を取り巻く人々 ②ジャンクショップ

『ゴミ山を取り巻く人々 ②ジャンクショップ

2  ゴミ山を取り巻くビジネスの中で欠かせないのが、ジャンクショップだ。ここではスカベンジャーたちが拾ったゴミが売り買いされ、そのゴミは外部のリサイクル団体へとまた売られていく。大型トラックを所有する大きなジャンクショップは直接リサイクル工場へゴミを週に一回持っていくが、小さなジャンクショップの場合、中間に別の会社を通してリサイクル工場へ持っていってもらうことになり、その分余分の費用がかかる。

 彼らの労働時間は、早朝の5時から夜8時ころまでである。トラックが行き交う時間帯はほとんど、ということになっている。ジャンクショップ2軒、スカベンジャー1人に聞いた、ものの価格のおおよそは以下のとおりである。全てのジャンクショップは私営であるので、価格は店によって多少の差がある。

 プラスチック 買値 P7/kg     売値 P10前後/kg
 ビン      買値 P1-P3(壊れていたらC50)/kg 売値P3.5/kg
 缶       買値 P30-40/kg 売値 P50前後/kg
 紙       買値 P4/kg     売値 P8/kg
 新聞      買値 P2/kg     売値 P8/kg
 ダンボール  買値 P1/kg     売値 P2/kg
               P…ペソ C…センタボ(ペソの100分の1)

2005_feb_047  パアララン・パンタオ近くのジャンクショップを手伝っているロッセルさん(19歳、女性)は、2004年9月からこの店で姉を手伝っている。現在4人を雇って、家族3人で暮らしている。家賃は月に4000ペソ、それに60ペソの水道代と1800ペソの電気代がかかる。店の収入は一日6000ペソだ。

 ジーナさん(30歳、女性)は夫が経営する小さなジャンクショップで手伝っている。夫は1984年からここパヤタスでスカベンジャーをはじめたというから、パヤタスにゴミが運び込まれてすぐにここに入ったようだ。ジャンクショップは3年ほど前から経営を始めた。子供の一人は現在私立高校の3年生。心臓を患っており、生徒数の多い公立校に行かせられないので、私立高校へ通う。本当は手術が必要なのだが、手術を受けるには20万ペソが必要。今は薬代だけでも費用がかさみ、また十分な貯えがないため、とりあえず学校に通わせている。現在の収入は一日およそ2000ペソ。以前は5000ペソほどであった。また以前は週に28,000ペソであったのが現在は10,000ペソほどであるという。子どもが学校に通い手伝いをする人が少ないこと、またゴミが減っていることなどから、経営がうまくいっていないそうだ。現在の家は、経営がうまくいっている頃に購入したものだそうだ。』

以上「パアララン・パンタオとパヤタスの記録」(大野千英)より。

(写真:ゴミ山の麓に大小のジャンクショップがたくさんある。ゴミの山の上にも、テントを張った店がいくつもある。ジャンクショップや、ジュースや菓子、簡単な食事を売る店などだ。)  photos by Chie O.

 ジャンクショップの経営は、スカベンジャーよりは多くの収入を期待できるが、経営はそんなに安定しているわけではないようだ。

Photo_4  ずっと以前にパアララン・パンタオで教えていたこともあるという女性は、94-95年頃、一時期、ジャンクショップの経営が非常にうまくいって、家出少年たちを何人も雇い、家具も新しくて(それが、ゴミ山から拾ってきた家具や小物と一緒に使われているちぐはぐさがユニークだったが)、その成金ぶりがすこし不安ではあったのだが、数年後には、なんの事情でか経営にゆきづまり、レティ先生たちが苦労して電気の直接供給を実現し、電気代が半額になった頃だったが、その電気代が払えなくて、電気がとめられている、というありさまになっていた。家具もすでに売り払っていた。ドラッグの売買に手を出し、警察がやってきたというような噂もあって──もうそんなことはしていない、と本人は言っていたという話も聞いたが──、そのころから会うこともなく、その後のことを知らない。私にゴミ拾いの仕方を教えてくれた人、会う度、親しく抱きしめてくれる人だったが。

(一番下の写真は、1994年撮影。ジャンクショップでゴミの重さをはかる。) 

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ゴミ山を取り巻く人々 ①スカベンジャー

2005_feb_034  留学生のチエちゃんが、04年から05年3月にかけて、ダンプサイト事情を取材してまとめたレポートがある。

 以下、「パアララン・パンタオとパヤタスの記録」(大野千英)より。
 

『ゴミ山を取り巻く人々 ①スカベンジャー

2005_feb_043  再利用の資源をゴミ山から回収し、利益を得る仕事を行う人々はスカベンジャーと呼ばれる。彼らの出身地はマニラだけでなく、地方からの者も多い。パヤタス地区を管轄しているパヤタスオペレーショングループ(POG)によると、現在(2005年2月)およそ2500人がスカベンジャーとして働いている。2000年の崩落事故以来、14歳未満の子どもは危険を回避するため立ち入り禁止となっているが、実際には監視の目をすり抜け中に入りゴミを拾う子もいる。

 一見多くの人々がただゴミを拾っているだけに見えるゴミ山であるが、実際は様々な規則や秩序がその上には存在する。彼らの労働場所ダンプサイト(ゴミ山)には、昼間に8団体、夜間に7団体の組織が動いている。ほとんどのスカベンジャーはいずれかの団体に所属し、その各団体によってゴミを拾うことのできる場所と時間帯が決められている。ゴミは夜21時まで運ばれ、スカベンジャーはその後22時までゴミ山に入り働くことができる。

2005_feb_056_2  スカベンジャーの一人、リトさん(28歳、男性)に話を伺った。彼は現在、家賃700ペソの家に父親と二人で住んでいる。まだスカベンジャーとして働き始めて1年も経っていない。ゴミ山に来る前は日給150ペソの建設会社で働いていたが、ゴミ山では3時間から半日で150ペソは稼げるというのでここで働くようになった。現在の収入は多いときで一日200ペソ。一日100ペソでも良いほうだという。』

(注、法定最低賃金は、この頃月給7000ペソ。しばしば、最低賃金が最高賃金、といわれるが、パアララン・パンタオの教師の給料も3000~6000ペソ。(2007年から4000ペソ~7000ペソ(但し法定最低賃金9000ペソ)

photos by Chie O.

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クリスマス・パーティ2004

11月には校外学習。バス貸切で動物園やマニラ湾近くの遊園地に行った。先生たち、レティ先生の息子のジェイコーベンたちが引率していった。ボランティアの友人たちも。園の入口で、どこから来たのかと訊かれて、パアララン・パンタオの説明をすると(ジェイのことだから、よほどしっかり説明したのだろう)、遊園地側の好意で、なんと、子どもたち入場無料にしてもらったという。

つづく12月にはクリスマス・パーティ。多くの人たちの協力で、服や靴、玩具やすこしのお小遣いなどのプレゼントを用意することができた。この年に留学中だったチエちゃんの報告から。

013 「12月18日、子どもたちが楽しみにしていたクリスマスパーティーが、午前にパヤタス校にて、午後にエラプ校にてそれぞれ行われました。中心となって企画・運営を行ったのは、レティ先生の息子、Jayさんでした。
 9時。教室の扉が開かれ、いつもよりもおしゃれをした、元気いっぱいの子どもたちが集まってきました。彼らの表情から、わくわくしている様子がよくわかりました。子どもたちはおよそ60人、保護者が20-30人集まっていました。

022  9時半。外のバスケット場にて、パーティーが始まりました。司会はJayさんと彼の友人のアランさん。色々な種類のゲーム(中にはお母さんたちを対象にしたゲームも。)が行われ、また、デイケアとレベル1、レベル2・3・4からそれぞれ代表者によるダンスが披露されました。その後、私たち(留学生)6名+日本の学生3名による、楽器&歌のクリスマスソングメドレーを披露しました。フィリピン人ほど音楽やダンスセンスのない私たちは、みんながのってくれるか不安でしたが、子どもたちや保護者のなかにいっしょに口ずさんでくれている人がいて、とても嬉しかったです。

025041_2   各レベルごとにプレゼント(シンガポールからのたくさんの服・今までためておいたおもちゃ・靴、等。20ペソのお小遣いも贈られていたようです)とお昼ご飯をもらい、解散となりました。(スケジュールがきつかったため、お昼ご飯は持ち帰りとなりました。)私たちは、UPの他の日本人留学生にも手伝ってもらった、手作りのミサンガを一人一人にプレゼントしました。全員が帰ったのがちょうど12時ころ。予定通りでした。

 その後皆で、私たちが作った日本料理、レティ先生たちが作ったフィリピン料理を食べ、1時過ぎに学校の前からジプニーを貸しきってエラプ校へ移動。

Photo   エラプ校では、増設工事した左側一階の新しい教室にて、パーティーが開始されました。しかし、どう考えても子どもと親の人数に対して狭すぎるので、最初に行った簡単なクイズ以外は、外の道路で行われました。3-4種類のゲームが行われ、パヤタス校のデイケア・レベル1の子たちによるダンスがもう一度披露されました。外で行ったため、近所の子どもたちもたくさん集まってきて、すごい人数になっていました。
その後、子どもたちはレベル別に整列させられ、一人づつ教室に入りプレゼントを受け取り、解散。

Photo_4  全ての生徒と親が帰り、教室の掃除をしたあと、私たちはまたジプニーでパヤタス校へ帰りました。その後すぐに私たちは帰宅の途につきました。昨晩寝ていないレティ先生やJayさんの体調が気がかりでしたが、相変わらず元気な笑顔で私たちを見送ってくださいました。」

 留学生たち、楽器の練習をしたり、前日から泊まり込みで準備してくれたのだ。レティ先生たちも徹夜でプレゼントの仕分けなどの準備をしていたらしい。

052  「パーティーの3日前、レティ先生に、この学校をやっていて一番嬉しいとき、一番苦しいときはどんなときですか、と質問をしたところ、生徒たちが高校や大学の入学試験に合格したときは本当に嬉しい、資金が無くて学校に必要なものが買い揃えられないときが一番苦しかった、と話してくれました。」

photos by Chie O.

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