マリーグレースの進学
1988年10月5日の朝。ゴミの山で、捨てられた赤ちゃんを見つけたスカベンジャーが、レティ先生のところに連れてきた。レティ先生は赤ちゃんの汚れた体を洗った。近所の人たちがミルクやおしめをもってきてくれた。赤ちゃんの具合が悪そうなので、レティ先生はゴミのトラックの運転手を説得し、大雨のなか、ゴミのトラックで赤ちゃんを病院に運んだ。そうして一命をとりとめた女の赤ちゃんを、レティ先生は、マリーグレースという名前をつけて、養女にした。
グレースが、2歳のとき、心臓に小さな穴があいていることがわかった。手術が必要だが、お金がない、という状況がずっと続いた。レティ先生は市長にも、手術が受けられるようにお願いの手紙を書いたりしていたが、がんばってください、と言われただけだった。2か月に1回、病院に検査に行く。それはもう1日がかり。5分の診察のために、半日並んで待つといった感じ。レティ先生は学校があるので、なかなか連れていけない。そういうとき、かわりに連れていってくれるのが、近所のテリーさんだった。
小学校に通わせるのも不安なので、ずっとパアララン・パンタオで勉強していた。夜は、デイケアの子どもたちが使う低い大きな机をふたつ並べたのが、グレースのベッドになった。その硬い木のベッドで、まだ小さいグレースと(でも足のサイズは私より大きかった。たぶん、ふだんゴム草履で、靴をはかないから、のびのび成長するのだろう)一緒に寝たとき、夜中に2度も顔を蹴飛ばされた。その話を、何年も何年も繰り返して、私たちは笑ったのだが。(その机は、いまエラプ校で使われている)
グレースが11歳のとき、心臓の穴がすこし大きくなっているのがわかった。もう手術をしたほうがよかった。ゴミの山で赤ちゃんが見つかることは、何度かあったらしい。たいてい死んでいるが、まれに生きていることもあり、でも、そのまま放置されて死んでしまったりした。学校の横の椰子の木の下には、死んだ赤ちゃんが埋められている、という話だった。そんななかで、奇跡的に生きのびたグレースを、もっと生かしたい。学校の資金とは別に、日本で寄付を募ることにした。数ヶ月後、グレースの手術の日程が決まり、そのころ、必要な金額だけは、なんとか寄付も集まっていた。
2000年3月、ゴミの山の自然発火の炎が広がり、山が大火事になった日に、グレースは病院に入院し、2度の手術を受けた。入院中、つきそいのベッドなどはないから、レティ先生とテリーさんは、交代で、自分の靴を枕に廊下で寝ながら、つきそいしたらしい。手術は成功し、(助けてくださったみなさま、ありがとうございます。)術後も良好で、2003年には、公立の小学校に通いはじめた。
一度学校で倒れたことがあり、体力が続かないので、通うことをあきらめ、パアララン・パンタオでの学習に戻ったが、それから体調も安定し、小学校卒業認定の試験に合格し、05年、16歳のグレースは高校生になった。レティ先生一家のサポートで、スクールバスで通える私立の高校に通っている。でも無理して勉強したりしないように、学校の先生にも、グレースにも言っているんだと、レティ先生は言っている。
2008年現在、グレースは高校4年生。(フィリピンは、中学校がなく、小学校6年のあと、高校4年)、大学受験の真っ最中。
(写真は1996年7歳のグレース。と、彼女の落書き)
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