パヤタス校 新校舎完成!

Paaralang_pantaopayatas 2007年2月、パンパンガ通りに建設中だったパヤタス校の新校舎が完成し、引っ越しした。引っ越しのため、ほんの一週間ほど休んだだけで、まだ荷物も片付かないなか、クラスは再開した。

引っ越しと、それから旧校舎の管理のために、レティ先生は人を雇った。旧校舎で使っていたものも、窓も戸棚も、使えるものは全部、新校舎で使う。留守の間に、旧校舎がPaaralang_pantaopayatas_2 荒らされてしまっては困るからだった。

この年、給食は、11月頃に資金不足のために一時中断した。パヤタス校は引っ越しのために2月頃も中断した。

(新校舎と新しい看板)

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18年間、使った校舎が、ついに壊されるときがきた。その様子を、ナオちゃんが写真におさめてくれた。レティ先生がとても名残惜しそうだった、と言った。

(取り壊される旧校舎。レティ先生)

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この年、学校の運営はぎりぎりだった。なんといっても2校で300人を超える生徒を受け入れているのである。レティ先生はしばしば息子たちに借金をして、先生たちの給料を払っているというふうだった。エラプ校の増築工事の中断も気がかりだったが、とてもそれどころではない状態だった。

なのに、増築工事を再開する、とレティ先生が言いだした。それもできるだけ早くつくってしまいたい。

北京オリンピックの影響で、資材が高騰を続けているというのだ。これ以上資材が高くならないうちに工事を完成させたい。7月になったら雨季になって仕事がすすまないから、4月5月の夏休みのうちにつくりたい。

そんな無茶な、と思ったが、いつもそうなのだ。奨学金の支給も、給食も、エラプ校の開校も、何か新しいことをはじめる度に、いつも、そんなお金はないよ、と私は思い、レティ先生に言ってもきたが、それが必要だと決めたら、レティ先生は実行してしまうのである。すると不思議に、お金はあとからついてきた。これまではそうだった。

これまではそうだが、今度もそうとは限らない。そうとは限らないが、何とかできないか努力はしてみるべきである。

パヤタス校が新校舎に引っ越ししているころ、私たちは書類をつくっていた。

郵便局のボランティア貯金の配分申請書。その配分をもらっている植林のグループの人が、申請をすすめてくれたのだったが。

この書類を準備するのが、もうなんというか。大変だった。マニラ在住中のナオちゃんに、しばしばパアアラン・パンタオに通ってもらって、引っ越し荷物のどさくさのなかから、設計図や、あれこれの資料を出してきてもらったりだとか、フェンスの値段がいくらで、セメント一袋がいくらだとか、それがまた値上がりしただとか、情報収集にあたってもらったのだが、あのときは、ほんとにありがとう。

設計図も当初のものとは変わってしまっているから、ナオちゃんの情報をもとにこちらでつくらなければならなかったり、運営費を含む予算も詳細に書かなければならないし、ペソを円に換算し、円をドルに換算し、そんなことを、毎晩毎晩やっていた。

書類の準備、夫が手つだってくれたが、何度も何度も、計算のやり直しとか書類の書きなおしとか出てきて、夫は苛立って怒るし、夫の機嫌がどうだろうとしなきゃいけないものはしなきゃいけないので、私もゆずらないし、夜ごと夫婦喧嘩していたよ。

で、全部で80枚ほどにもなった資料を、提出した。200万円、配分してください。

だが数か月後、却下の知らせが届く。事業主体が日本の団体ではないから、という理由だった。現地の人が行っている事業を支援する、というのは、配分先の対象にならないのだそうだ。

そんなことははやく教えてください。だったら、書類なんかつくる必要はなかったのに。夫婦喧嘩もなくてすんだのに。

がっかりしたのはしたのだが、学校の支援をはじめたころから、誰もまともにとりあってくれない、という経験はしたたかにしてきたので、まあこんなもんだろう、とも思った。

5月、現地では、レティ先生はもう増築工事を再開していた。

photos by Naoko O.

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エラプ校へ

Photo_2 エラプへ行った。2000年のゴミ山崩落事故のあと、人々が強制移住させられたあとに、訪れて以来。

あの事故のあと、パアララン・パンタオに通っていた生徒も半数が、こちらに移ってきて、そして教育の機会を失った。それでレティ先生が、分校を開校したのが2003年。その年から私は妊娠・出産でしばらく来れなかったので、エラプ分校は、送ってもらう写真でしか見たことがなかった。

「ウェルカム」エラプ校の隣に住んでいるベイビー先生が、クリスマス休暇の教室に迎え入れてくれた。

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                                   2006年のエラプ分校は、資金不足で増築工事が中断していた。http://paaralang.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-acc9.html

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柱と屋根しかない3階からのながめはすばらしい。ベイビー先生が洗濯ものを干したり、娘のエライジャンが犬を飼ったりしている。「飛び降りるのにちょうどいいよ」と、レティ先生が笑う。

エラプの通りには、3階建てか4階建ての立派な建物があって、壁に大きな十字架のデザインがある。学校だという。外国のNGOがつくった学校だが、資金トラブルで、すぐに閉鎖されてしまった。授業料が、ここの人たちには高かったのだ。月に200ペソといったか400ペソといったか。エアコンのある教室とない教室で、値段も違っていたらしい。

なんでもただでしてもらおうというのはよくない、という考えで、パアララン・パンタオでは、子どもたちは、電気代として、毎日1ペソずつをもってくることになっている。飴玉1個か2個の値段だが、それでももってくるのは半数ほどの生徒にすぎない。

一方には、建物はあるのに閉鎖されている学校があり、一方には、生徒は多いが、建物は工事途中のまま、工事再開できるメドもたたないという学校がある。5分も離れていないところに。使わない建物なら、ゆずってくれないかしらと、ひそかに思うが、思うだけ。

ところで、ベイビー先生の長女のジョイは、看護師のコースにすすんでいたが、大学を休学していた。体も小さく、体力的に困難を感じたらしい。看護師になるのは無理だろう、大学の先生とも相談して、来年から医療事務のコースに変更するつもりだという。休学中、エラプ校でアシスタントの先生をしている。

ジョイの奨学金は、太田君が出していた。彼は今回、奨学金を持参していたが、ジョイが休学しているので、いまは必要ないということになった。

学校の近くに空家があると聞いて、太田君がほとんど衝動的に、その家を買おうと思いついたのは、必要なくなった奨学金の金額と、家を買う手付金が、同じ金額だったからである。

太田君が、家を買おうと思いついたときには、私たちはすでにパヤタスに戻っていたが、善は急げとばかり、夕闇のなか、またエラプまで引き返して、レティ先生はさっそく家のオーナーと話をつけた。

レティ先生名義で、太田君が買った家には、その後、置き場に困っていた7台ほどのミシンがしまわれた。ミシンは94年頃、地域の人たちの経済活動の支援のために(それで学校の運営費もつくろうと夢見た)、日本の人たちの援助で買ったもの。しかしそのプロジェクトは、結果的には失敗して、ミシンは使われず、でもいつか役にたつこともあるだろう、ゴミ山が閉鎖されたら必要になるよ、とレティ先生は信じて、置き場に困りつつも、大事に持っていたのだった。

たぶんいつか、エラプの人たちの手仕事のために、この家とミシンが、使われることもあるかもしれない。今のところ、レティ先生たち、学校の運営だけで精一杯で、それどころでないが。

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ジュリアンの就職

Photo いつだったか、「私はジュリアンがパンツもはかずに走りまわっていたころから知っているよ」とレティ先生は言ったが、ジュリアンは、学校の斜め向かいの家の子どもだった。両親が離婚していなくなり、祖父母に預けられて育った。学校に興味をもって遊びに来る子を、レティ先生は生徒にした。パアララン・パンタオで何年か学んで、小学校に編入した。

小学校を卒業する前かしたあとか、そのころに、祖父母が相次いで死に、身寄りをなくしたジュリアンを、隣人のレメジョスさんが、うちには女の子しかいなくて、息子が欲しかったのだと言って、養子にした。それからは、レメジョスさんの一家が、ジュリアンの家族だ。レメジョスのお母さんは、忙しいレティ先生にかわって、レティ先生一家の洗濯をずっとしていた。姉さんのメリージェーンは、高校を卒業したあと、パアラランの先生を2年ほどしていた。(それから結婚してやめたが、2004年からまたパアラランの先生になった。女の子と男の子、ふたりの子どものお母さん)。「仲のいい家族だ。ぼくは家族をとても誇りに思っている」とジュリアンは言う。

小学校を卒業したジュリアンは、またパアラランで勉強をつづけて、ハイスクールに進学し、卒業した。それまでに、パアラランからハイスクールに進んだ子は50人ほどもいたが、みんな学資が続かず中退して、卒業できたのは、ジュリアンとレイナルドともうひとりだけだった。

ハイスクールを卒業したジュリアンとレイナルドを、大学に行かせる、とレティ先生が言いだしたときは驚いたが、奨学金を出すことになった。学校のいろんな雑用を、レイナルドとふたりでこなしながら、船舶関連のカレッジを卒業した。

レイナルドは卒業時に金メダルをとったし、ジュリアンも優秀な成績だったが、コネもなくコネのためのお金もなく、就職は決まらなかった。

ジュリアンは大学を卒業したあとも、ずっと、パアラランのスタッフとして働いた。給食の買い出し、調理をはじめ、あらゆる雑用を、他の先生たちよりずっと安い給料で、とても献身的に、子どもたちのために働いていた。(写真は、給食の準備をするジュリアン。2005年)

「パアララン・パンタオは、ぼくの人生の扉を開いてくれた」と言っていたが、仕事が見つかるまでは、たぶん無給でも、レティ先生を助けて働きつづけるつもりだったろう。彼の、なんていえばいいんだろう、報恩の気持ち、その行動には、いつも何かしら胸打たれるものがあった。ジェイコーベンの結婚式のときに、教会の坂を、レティ先生の痛む足を気づかいながら、手をひいて歩いていた姿が印象的だった。そんなふうに彼は、レティ先生を支えていた。

ジュリアンの就職活動は、困難つづきだった。パアラランを支援してくれているシンガポールのグループの人たちに好かれて、誘われて一か月シンガポールに滞在し、仕事も見つけてきたが、なぜかビザがおりなくて、海外への出稼ぎをあきらめた。その後、外国船籍の乗組員の仕事を紹介してもらって、オーナーにも気に入られて就職したが、直属の上司が、自分の出身地の人間を優遇したいらしく、何かにつけてジュリアンに嫌がらせをした。ここで働くのは無理だと判断してやめた。

ジュリアンが、ついに就職したのは、ジェイコーベンの結婚式のほんの2週間ほど前だ。ジェイが勤めている貿易関連の会社で、倉庫係を探していて、社長にも気に入られて就職したのだという。

06年12月に就職して、いま(09年9月)もずっとそこで働いている。

一方、レイナルドは、やはり仕事が見つからなくて、パアラランで教師をしていた。もっと収入のいい仕事を探そうとしては、見つからず、戻ってくる、ということを何度か繰り返したのではないだろうか。ジュリアンが就職したあと、しばらくして、レイナルドは学校に来なくなった。また仕事を探しているらしかった(妻子もいるから、もっと収入が欲しいのだろう、とレティ先生は言っていた)。

もっといい仕事を、レイナルドは見つけられなかったみたいだ。しばらくしてまた学校にやってきたが、翌年度、レティ先生は彼を雇わなかった。その後の消息は聞いていない。

photo by Chie O.

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金網の向こう

Photo 裏庭のバスケットコートの上には、小屋が建っている。移住した隣人たちが、ゴミ拾いに来たときに、道に寝て、警官や警備員に追い立てられなくてもいいように、学校の裏に簡単な小屋をつくったのだが、道を広げるので取り壊すということになり、それは困るので、小屋を学校のバスケットコートの上に移したのだった。いずれ、小屋も学校も壊される運命ではあるのだが。

そのバスケットコートの上で、テリーさんと話していたら、「アテ・カズミ!」と呼ばれた。みると、金網の向こうに女の子が立っている。小さい妹を連れて。4年半も来ていなかったのに、私の名前を覚えていてくれたことに驚いたが、私も彼女の名前をすぐに思い出せた。マリーグレース。

レティ先生の養女のマリーグレースと同じ名前。年齢も同じくらい。学校の近くに住んでいて、何年もパアララン・パンタオに通っていた。いつだったか、学芸会のときに、写真をとっていたら、お母さんがやってきて、「あそこで踊っているのはうちの娘なの、写真を撮って」って言ったことがあった。8年ぐらいも前なのかな。いまは17歳になっている。立ち退きで遠くに引っ越したが、ゴミを拾いにここに来ている。抱きしめたいが、金網に隔てられていて、指先をからめるぐらいしかできないのが、悔しい。

この子は、私がここにいない4年半の間も、毎日ずっと、こうやってゴミを拾っていたのだ。

「クムスタカヨ?(元気?)」ときいたら、「マブティ!(元気!)」と答えた。変わらない無邪気な笑顔で。

このあたりの金網(家々を隔てる塀)は、捨てられたベッドのスプリング。

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建設中の新校舎

Payatas4_3 建設中の新校舎を見に行く。すぐ近く。Zamboanga St.からPampanga St.へ。

ほんとうに建設中。今の建物とほぼ同じくらいの広さの建物になる予定。今の教室で使っている窓や棚など、使えるものはそのまま新校舎で使う予定。

後ろの草地はゴミの山。昔は、谷、だった。

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Pampanga St.

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蠅の木

Photo_3 学校のまわりは、まるでゴミ山からなだれてきたように、ゴミで埋められ、かつてここに、200世帯ほどの集落があったなんて信じられないほど。

早朝、人々がゴミ拾いに集まってくる。リュックを背負って親子連れで。子どもの手をひいたり、肩ぐるましたり。まるでピクニックに行くみたいに、ゴミのなかへ歩いていく。

14歳未満の労働は禁じられているが、そしてここではわりPhoto_12 と厳しく管理されているようだが、学校の周辺は、いっときのことだろうが、管理も行き届かないようで、小さな子どもたちもゴミ拾いしている。

目の前を数匹の犬が通る。痩せこけて皮膚病で、あわれな姿の犬たちが。ちょうど、フィリピンで犬に噛まれた日本人が、狂犬病で死亡したというニュースがあったばかりの頃で、今まで、気にとめたこともなかった犬たちだが、ここの犬たちが狂犬病でないとはとても思えず、足がすくむよう。息をのんで、犬たちが通り過ぎるのを見送った。

Photo_11 校舎の裏庭に出ると、すごい蠅。エラプの近く、カシグラハンに移住しているテリーさんが来ていて、顔にぶつかる蠅を手で払いながら、片方の目がもう見えないんだ、と言う。手術を受けたが、うまくいかなかったらしいのだった。(写真、左がテリーさん)

Photo_10  風もないのに木がゆれる。枝にびっしりと蠅がとまっていて、その重みでゆれているのだ。校舎のすぐ隣。かつてここには、家族の庭があった。クリスマスのころに、夜、家族で賛美歌を歌う声が聞こえた。井戸があって、いっとき学校で使う水もここの井戸に汲みにきた。水汲みは子どもたちの仕事で、順番が来るまでの間、石蹴りして遊んだりした。

2000年のゴミ山崩落事故、その後の強制移住、また今回の強制移住で、かつてあったコミュニティは、すっかり変貌している。見知らない住人も多いし、治安も悪くなっているから、ひとりで歩いては駄目だという。

Photo_6 テリーさんが一緒に散歩してくれる。道を歩けば、子どもたちに会う。(後ろがゴミの山)

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小さいマリアの家があった。お母さんは熱心なクリスチャンで、教会のボランティアをよくしていた。きょうだいが10人くらいいて、何人かはパアララン・パンタオに通ってきていた。マリアが2歳で亡くなり、それから半年もしないうちに、生まれて7か月のアントニオも亡くなったが、それも10年ほども前のことだ。きょうだいたちの写真をもっている。とても仲のいいかわいい子どもたちだった。みんなもう、大人になったろう。元気かしら。

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結婚式

Photo 2006年12月25日。レティ先生の末息子のジェイコーベンの結婚式に出席するために、4年半ぶりにフィリピンへ。福岡空港から太田君と一緒。

マニラ空港にはマニラ滞在中の直ちゃんや留学生たちが迎えに来てくれていて、一緒にタガイタイへ。タガイタイは、マニラからさほど遠くない、タール湖畔の景勝地。パイナップル畑のなかのコテージに泊って、翌日、丘の上の教会で結婚式。

子どもたちがすっかり大きくなっていて、びっくりする。ジョイとグレースは20歳前後のきれいなお姉さんになっているし、アチバルはすてきな青年になっていて、頬にキスしてくれる。気むずかしい2歳の女の子だったクレアアンは、もう6歳で、8歳になったカイラとふたりで、ピンクのドレス姿で結婚式のフラワーガールをつとめるのだという。

9年間、毎年来ていたのに、4年半も来れなかったのは、妊娠出産したからだった。そして生まれた息子が、もう3歳になっている。当然と言えば当然なのだが、それだけの歳月が、ここの子どもたちの上にも流れていたのだ。

レティ先生が、坂道をジュリアンに手をひいてもらいながら歩いている。足がつらそうだ。膝が痛むのだと聞いていた。歳月はこんなところからも感じられてしまう。

新婦のお姉さんが妊娠していて臨月なので、ゆっくり車を走らせているということで、その到着を待つことになり、結婚式は1時間ほども遅れてはじまったのではないだろうか。のんびりしていて、でもそれは一方で、待つという忍耐強さでもあって、この国のそんなところが、何かしらとても人間的だ。

式の披露宴のあと、パヤタスへ。ケソン市に戻ってきたところで、晩御飯を軽くマクドナルドですませることにする。同じ車に乗りあわせたレティ先生とジュリアン、太田君と私の4人で店に入ると、みながいっせいに振り向く。レティ先生は、緑のドレス姿だし、私は花模様の浴衣姿だし、目立つのはしょうがないか。

Photo_2 ゴミの臭いがしてくる。あたりは真っ暗。家々からもれてくる灯りがない。学校の周辺の建物はもう取り壊されて、なんにもなくなっているのだった。ゴミの山のなかに、学校だけがぽつんと取り残されている。学校は、移転先の新校舎が完成するまでの間、取り壊しを待ってもらっている状態なのだ。クリスマス休暇で生徒の来ない教室は、引っ越しに備えて荷物があふれかえっている。

クリスマス・パーティの飾りつけも、まだそのまま。

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クリスマス・パーティ 2006

12月16日に、パヤタス校、エラプ校両校で、17日にはエラプ校で、クリスマス・パーティを開きました。

JICAメンバーが来て人形劇をしてくれました。(オオカミと3匹の子ブタ、だったかな? 人形の都合で、ライオンと3匹の子ブタ、だったのかな。) 手品あり、福笑いもあり。

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(上4枚の写真はパヤタス校)

天使が来たり、ジョリビー(フィリピンで人気のファーストフード店の蜂のマスコット)が来たり。

留学生は歌を歌ってくれました。生徒たちに折り紙の鶴のプレゼントも。

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2006_1217_114630aa お昼ごはんあり。プレゼントもあり。

17日のエラプ校は、赤い三角帽子もあり。

photos by Naoko O.

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立ち退き

2006_1215_150432aa 2006年12月。ゴミ山拡張のために、パヤタス校周辺の家々はもう取り壊されている。移転先の建物がまだできていないので、立ち退くことができないパヤタス校だけを残して、あたりはすっかりゴミの山だ。

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2006_1215_145828aa_2  かつてそこにあったもの。レティ先生の家(姪のマジョリー一家が暮らしていた)。以前パアラランの先生だったエデンの家。また別の先生の家も。90年代半ば頃か、娘さんが日本のトコロザワで働いていると言っていた一家。パアラランに通ってきていた子どもたちの家々。いくつかの豚小屋。数軒のサリサリストア。ゴミ山崩落惨事のあと、アメリカのNGOだったかハリウッドスターだったかの支援でつくられたという、デイケアセンターの立派なプール。緑の木々。ゴミのなかに捨てられていた赤ちゃんが、生きて発見されたけれどもすぐに死んで、その遺体を椰子の木の根もとに埋めたという椰子の木も。

残っている学校も、移転先の新しい校舎ができれば、壊される。

なつかしい建物。すこしずつの寄付で、雨漏りのする屋根をなおし、壁にペンキを塗り、水道をひき、電気をひき、給食のためのキッチンをつくり、採光の悪い窓に硝子を入れ、すこしずつすこしずつ、整えてきた小さな建物。毎年、100人から200人の子どもたちが通ってきていた学校。

それがいま、ゴミの山のなかに、ぽつんと残されている。2006_1215_144917aa

ぽつんと残されている学校に、子どもたちは通ってきていて、クリスマス・パーティのダンスの練習をしている。

photos by Naoko O.

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all saint day

2006_1101_113659aa all saint day というのらしい。日本のお盆みたいな感じかな。11月1日は、お墓参りに行くのだそうです。たまたまその日、パアララン・パンタオを訪れたナオちゃんと留学生が一緒に行った。

これは、パヤタスから、エラプに向かう途中にある墓地。山のなかの広々としたところ。これはレティ先生のお兄さんのお墓(点在している四角い平べったい石が墓碑)。彼はパヤタス校のちかく、娘のマジョリー(5年ほどパアラランの先生をしていた)一家の隣で暮らしていて、ずっとマジョリーが世話をしていた。

学校に滞在していたとき、何度も会った。ふらりとやってきて、キッチンに黙ってすわっていることが多かった。私が日本人とわかると、「ワカルカ」といきなり日本語で話しかけてきた。いきなり「ワカルカ」と言われても、何を分かればいいかわからないのだが、「ワカルカ」という言葉だけは分かるので、「ワカルヨ」と答えると、うんうんと、何度もうなずいた。

「ワカルカ」という、なぜかそれはいつも怒ったような言い方で、たぶん、戦争中だった少年時代、日本が侵略していたときに覚えたのかもしれない。「ワカルカ」と言った日本人は、怒ったような言い方をしていたのかもしれない。

毎年、会う度に、「ワカルカ」「ワカルヨ」、という言葉だけを、挨拶のようにやりとりした。その一瞬、扉がひらき、それから閉じられる。うなずく、ほほえむ、あとは並んで黙ってすわっている。

2000年か2001年に亡くなったのだと思う。亡くなる前年くらいから、一日じゅう食べものを欲しがって困る、とレティ先生やマジョリーが言っていた。おじいさんが学校にやってくると、グレースはあわてて、キッチンの食べ物を隠していた。レティ先生が袋に少しだけ何か入れてやると、黙ってそれを握りしめて帰っていった。

さて、フィリピンのお盆は、陽気である。墓苑でピクニック。死者の墓に花と蝋燭を飾り、墓の上に、テントを張って、飲んだり食べたりカラオケしたり、みんなで楽しく過ごすのだ。死者だって、みんなが楽しいのがうれしいだろう。

photo by Naoko O.

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