2011年8月 パアララン・パンタオ 8

☆ バングース

水曜の朝、仕事が休みらしいレイが、おっきな皿をもってやってくる。ホイルにくるまれているのはバングースだよっていう。
2匹も。大きな川魚の腹に野菜やレーズンをまぜて詰めものにしている料理。アテ・カズミにもってきたよっていう。
Img_1891_2 それはありがとう。ずっと昔にも、レイはぼくが料理つくるからって、ココナッツで何かを煮込んだ料理をつくってくれたことがあったけど、できあがったからもう夜中だった。あれはずいぶん手の込んだ料理で、おいしかったが、バングースもとても手が込んでいて、おいしい。
食事、あれこれ作ってくれるので、日本にいるときの倍くらいは食べていた。シニガンスープにアドボにパンシット。ジェイがお土産に、シニガンスープの素をたくさん買ってもたせてくれたが、問題は、日本では、私しかそれを食べないってことなんだ。
ほしい人いたら分けてあげます。お知らせください。

☆アインシュタイン

エラプ校に行くと、子どもたちは勉強中。
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Img_1868 狭いキッチンでは、ベイビー先生が、給食の後片付けをしていた。山とつまれた皿とコップ。給食のスパゲティの残りを出してくれたので食べる。
レティ先生は昨日おろしたお金をもってきてる。先生たちの給料と電気水道代ほか。
パヤタス校もだけど、エラプ校も、去年と先生たちの顔ぶれは何人か変わってる。ほかにもっと給料のいい仕事を見つけて転職していったのだ。そう、ここの先生の給料は、安すぎる。

ああ、思い出したときに書いておこう。アインシュタインを見た話。ここの子どもたちが、アインシュタインだ、と言いたいわけではなくて、ジープニーの話。
ジープニー、マニラの乗り合いジープは大好きな乗り物だが、最近は全然乗っていない。ジープニーは、車体の絵がひとつひとつ違って、みているだけでも楽しい。キリストやマリアの絵、ドラゴンや馬、最近はアニメのキャラクターも走ってる。エラプ校の近くに、ジープニーがたくさん停車しているところがあって、通り過ぎただけで、ゆっくり眺められなかったのが残念なんだけど。
バラスに行くときか、銀行に行くときか、どこで見たのだったか、アインシュタインが長い舌を出している絵のジープニーが、目の前を走り過ぎていったのは、強烈な印象だった。
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☆ワランペラ(金がない)

パヤタス校にもどると、太田(伸)くんが来てくれている。フィリピン大学の大学院生。
グレースがようやく仕上げてくれた経理のレポートを前に、レティ先生と3人で、あれこれ話す。

先生の給料、電気代、水代、備品代、クリスマスの費用、夏休みに先生たちが教育NGOから受けている講習の費用、奨学生の授業料、制服代、交通費、などなどなど。
まずはっきりわかることは、お金がないってことだ。だいたい、たったこれだけの予算で、300人を超える生徒の面倒を見ているということ自体が、ほとんど奇跡のようだが、それもこれも、先生たちが、申し訳ないような薄給で働いてくれるおかげだ。
世間の相場では、公立小学校の教師の初任給は15000ペソ。今年、先生の給料を月1000ペソあげたが、それでもここの先生の給料は公立小学校の初任給の半分~3分の1。ほかに仕事を見つけてやめていくのを止められない。先生たちの給料、2年ごとに月1000ペソずつあげたい、とレティ先生は言うが、本当はもっともっと、給料あげてあげないといけないんだよな、と思う。
レティ先生の給料はガソリン代とラリーさんたちへの労賃で消える。個人的な生活費や、グレースやクレアアンの学費は、息子たちがサポートしている。

給食は、去年は臨時のまとまった寄付があって、何とかなったが、今年は難しい。100人分の1年間となったら、ちょっとがんばれば出てくるというような金額ではない。
ここは日本のスポンサーの支援で運営されているけど、日本は大変な災害に見舞われたから、今年は給食は無理だよって、レティ先生は親たちに説明している。それが一番理解されやすいし、親たちも心配もし、納得もしてくれているが、可能ならすぐにも再開したい、給食。

以前、子どもたちが学校にいけない最大の理由は、出生証明書がないこと、手続きするのにお金がかかること、だったが、いまはその問題も解消している。出生証明の手続きは、7歳までなら、わずかな手数料ですむようになり(その後は年齢があがるにつれてペナルティとして費用がかかる)、メイ先生が親たちをサポートしてくれる。市議会議員が、無料で出生証明書を準備するという運動をしたこともあり、それでもらった子どもたちもいる。そうして、いまはここで学んだほとんどの子どもが小学校に通うことができるようになっている。
でも、みんな、というわけではない。
2年前に15歳でここで勉強していたジェラルドは、いまどうしているかわからない。
彼はお父さんが死んでいて、お父さんの名前も知らない。お母さんはミンダナオにいる。マニラに出てきて、パヤタスのおじさんの家でジャンクショップの仕事をしていた。出生証明を取得するには、おじさんがサインしなければならないが、おじさんはそれを拒んだのだった。パアラランにも来なくなった。
記憶が苦手で暗算ができないジェラルドが、引き算をするのに、15-7ならば、15本の短い線を引いて、7本に斜線を入れて、残りを数える、という方法で計算していたのを覚えている。それで3桁4桁の引き算も、根気よくやっていたのを、感心して見ていたのだったけど。

☆ また明日

夕方、子どもたちが帰っていく。何人かの生徒は書き取りが終わっていなくて残ってる。
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またね、また明日ね、って手を振って別れるけど、それでまた明日、会うような気がしてるんだけど、明日の朝は私はもういない。次に来るころは、きっときみたちがもういない。居残りのマクマヌエルくんも握手して帰っていく。
明日ね。もしかしたら永遠ほども遠くの、でもきっと、また明日ね。

☆ バロット

夜、レイとジュリアンがやってきて、レティ先生と4人でビール飲む。なんだか同窓会みたい。パロット、あひるの卵を買いに行ったけどなかったよ、ということで、前夜の1つ残ったバロットが、私の前に置かれる。これ食べると、ほかのものが食べられなくなるけど、1個ならちょうどいいか、と思って、食べ終えたところで、学校の前の道をパロット売りが通る。「バローット、バローット」って、バロットの入ったバケツをもって行商に歩く。ああ、このタイミングで来るか。それでまたバロット買って、バロット食べる。
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ホセ・リサールの小説に、バロット売りの声が響くマニラの夜の暗さについての記述があったような気がする。100年以上前の物語だから、夜はもっと暗くて、声はもっと重くせつなかったろう。

ジュリアンが喋ってる。タガログ語はわかんないので、私は音楽みたいに聞いてる。カイルの病院の話と、それからマニラの渋滞について、話しているらしかった。

レイとジュリアンが帰ったあと、入れ替わるように、レティ先生の2番目の息子のボーンが、アルとやってくる。
クヤ・アルは東京で働いているが、勤めているインターナショナルスクールも夏休みで帰省中。親族のお葬式が続いて、なかなか忙しかったらしい。健康不安もあって、病院にも行っていた。
「出たんだよ」って言う。検査したら、体内から放射性物質が検出されたっていう。「東京にいて大丈夫かな」って言う。
それは難しい問題だ。危ないっていう人もいるし、危なくないっていう人もいる。本当のところはわかんない。若くないから、たぶん少しは大丈夫。でももし、小さい子どもがいたら、私は心配するかもしれない。

アルは3月に、広島まで来てくれた。原発事故のあと、600人いた生徒は100人にまで減ってしまって学校が休校になったので、広島で働いているフィリピン人の友人を訪ねてきたのだった。遊びに来たって言っていたけど、仕事を変わろうかなという気持ちもあったみたい。
でも一緒暮らしている息子が、いまの外国の大使館の仕事を気に入っている。以前日本の企業で働いたときは朝早くから真夜中まで働いて残業代もなかった、いまの仕事を変わりたくない、というので、アルも東京にとどまることにした。

その後、生徒は400人までもどったが、200人は帰ってこない。たちまち経営はたいへんになり、スクールバスの数も減らして、人員も減らして、でもその分、残ったスタッフの仕事は増える。バスの運転手だけでなく、あれこれのコーディネーターみたいなこともしているアルは、ストレスがたまって、とてもしんどい。
15歳で船乗りになって、日本に来て、それからずっと日本で働いて、途中10年ほどはフィリピンに帰っていたけれど、10年前からまた日本に戻って働いているアルが、フィリピンに戻りたいかなって言う。奥さんもほかの息子たちもフィリピンにいるのだ。でもフィリピンでどうやって生きるか。58歳。仕事どうするか。いろいろと悩ましいふうだった。

憂鬱っていう言葉は、なんて言うんだろうなって思う。ゆううつ。ゆううつ。ああ日本の話はゆううつだ。
「日本はもう、あんまりしあわせな国じゃないよ」って言ったら、
「むかしは、日本もしあわせだったよ」ってアルが言った。

酔っぱらった頭のなかを、ジープニーの絵のアインシュタインが舌出して走りすぎていった。

ドラマの撮影をしているボーンの話は楽しかった。撮影の前に、撮影場所を探すのも仕事で、いろんな景勝地も見て回る。ある観光地では、外国人やお金持ちがたくさん来て、美しい滝の下をびしょぬれになってボートでくぐったりしてるんだけど、滝の上では、水牛が体を洗ったり、おしっこしたりしているんだよって。

☆帰国

夜中、ふと目覚めるとグレースは、レティ先生に言われて、まだ清書してなかった、奨学生たちの経費のメモを清書させられていた。いろいろとありがとう。
午前5時半、起きると、小学校が朝のクラスのクレアアンはもう制服を来て出かけるところ。6時にはジュリアンが来てくれて、空港まで送ってくれる。
道で、ジェーン先生とすれ違う。小学校の前は子どもがすずなり。トラックの荷台に20人も30人も乗っているのは、これから工事現場に向かう労働者たち。
渋滞だし、時間かかるし、「寝てていいよ」ってジュリアンが言う。
寝る。

本当にいろいろとありがとう。フライトは、台北経由。台北からは、台湾人の若い夫婦と6か月の男の赤ちゃんが隣にすわっていて、このヨーヨーくんという赤ちゃんが、足の太い元気な子で、こっちにやってくるので、抱っこしてたら、自分の子どもが赤ちゃんだったときのことを思い出して楽しかった。
空港について、なかなか荷物が出てこないのを飽きるほど待って外に出たら、去年は、まっすぐに駆けてきてくれた子どもの姿が、ない。椅子の後ろに隠れてんの。うちのマクマヌエルくんだ。

そいで、家に帰って、一週間分の洗濯ものを洗濯機に放り込んだっと。

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2011年8月 パアララン・パンタオ 7

☆ 銀行

火曜の朝、「私はもうお金がないので銀行へ行こう」とレティ先生が言った。ラリーさんの運転で出かける。
最初の銀行は、スイスのグループからの振り込み、これはエラプ校の給食費にあてる。
次に行ったのがフィリピンナショナルバンクで、日本からの寄付はここに振り込みます。
銀行の前に汚れた布の塊があるなと思ったら、人間で、痩せたおじいさんが路上で寝ていた。
銀行の前には銃をもったガードマン。
番号札をもって長いこと待たされる。通帳を開いて、いまいくらあるか、いくら引き出すか、教えてくれる。
率直に言って、お金はない。帰国したら、あるだけ送ります。そのあとはしばらく待って。
長いこと待たされながら、ああ、金がないなあ、と思う。私、英語もタガログ語もほとんどできないが、金がない、というのだけはしっかり言えるなあ、と思う。
順番が来てからが、また長い。レティ先生、あれこれの身分証明書を提出し、あれこれの書類を書く。
なんでも払い出しのルールがかわったそうで、でも次からはもうすこし早いだろう、という。
ようやく引き出したドル紙幣を、けれどそこではペソに換えない。デパートの両替屋のほうがレートがいいのだ。

ルールの変更は日本でも。今年になって、マネーロンダリング対策らしいのだが、銀行のなかのテレビ電話で送金手続きするのに、そのお金をどこに送るのか何に使うのか、どうやって集めたのか、資料の提出をいちいち求められるようになったのだ。
帰国して、ほんの一昨日、あるだけ送金してきたんだけど、ニュースレター、年間の会計報告書、銀行の通帳、郵便振替の払出書の控え等、持っていって、機械で読み取ったものに目を通してもらう。面倒だが、もういっそ、会計監査してください、という気分。

フィリピンナショナルバンクを出るときは、おじいさんの姿はもうなかった。
それからデパートに行って両替する。空港の両替はあまりにレートが悪いので、私もここで両替して、すこし取り返す。
ジョリビー(フィリピンで人気のファストフード店)でハンバーガーとスパゲティ食べる。それから、ちょうど出口のあたりで絵本をディスカウントで売っていたから、2冊だけ買う。私でも読めそうな英語の、英語がわかんなくても絵をみりゃわかる、というきわめて簡単なやつ。人間の家には何がある? おいでよ、見てみよう、ってねずみさんが鳥さんをさそって、探検する。楽しく探検するんだが、最後には、その家を追い出されてしまう。なぜって人間の家には人間もいるからね。

☆ 午後

ジェーン先生が、体調がよくないって、その日は休みなので、教室の真ん中のしきりの棚を隅に寄せて、マイリン先生がひとりで生徒を見ている。午前と午後、それぞれ50人前後。たいへんそうだけど、しっかりやっている。さすがだ。
ひとりの女の子が、すやすや寝ている。起こさずにおこうっと。
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クラスが終わるころには、マイリン先生は、さすがにくたくたの様子だった。女の子たち、お掃除のお手伝い。
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夕方、ぼんやり、通りで遊ぶ子らを眺めてる。ここは1日が長くて、とりわけ午後はけだるい。
子どもたち、いつも通りで遊んでいて、私はそれを10年前も15年前も見ているんだけど、あのころの子どもたちと同じ子どもたちがそこにいるようなんだけど、もちろん、いまここにいるのは違う子どもたちだ。
すごくすごく不思議な気がする。午後はこんなに長くてけだるいのに、子どもは、なんだかあっというまに大きくなる。
ああ。ゴム草履をパタパタ鳴らしながら、走りすぎる。

心が途方にくれたら、子どものほうへ、もどっていくのがいい。
子どもたち、一緒に手をつないでくれたりして、そのたよりない手が、どうしてそんなに深いやさしさなのか、心強さなのか、いつも不思議だ。パアラランの支援をつづけてきた10数年、私はずっと、ここの子どもたちに甘えさせてもらってきたんです。

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2011年8月 パアララン・パンタオ 6

Img_1682☆ 教室

月曜日、朝7時半。子どもたちがやってきていきなり教室はにぎやか。月曜の最初は朝礼で、歌と宣誓の言葉を斉唱。
 





それからアルファベットの書き取り。今日は「Jj」の字。
見ていると、上下逆に書いている女の子いて、ああ、なんだかImg_1709魔法使いの杖みたいに見える。左右が逆になる鏡文字はよく見るし、私もよく間違ったけど、上下逆ははじめて見るなあ。なかなかすてきだ。魔法使いの杖。その曲がり具合も。


それから英語は、big -small 大きいと小さい、long-short 長いと短い。
それから今週の単元は、家族について。familyに関する英単語も覚える。お父さん(タタイ)はfather、お母さん(ナナイ)はImg_1736mother、お兄さん(クヤ)はbrother、お姉さん(アテ)はsister、という具合。
お父さんは何をしますか、という質問に手があげる。お仕事します。どんなお仕事。トラックの運転手。行商。ジャンクショップ(ゴミの仕分け、買い取り、転売)。ダンプサイト(ゴミの山)で働いてる。メタルを探してるよ。ゴールドを見つけるんだ。
そう、金や銀やプラチナを見つけられたらすてきだ。
でもなかなか難しい。ゴミはまず、最初にゴミ出しする家政婦さんがいいものをとってっちゃう。それから、ゴミのトラックに乗Img_1802ってる人たちがもってっちゃうから、ダンプサイトにつく頃には、金になるゴミはほとんど残ってない。現実は、1日働いて も、毎日の食費を稼ぐのが精いっぱい。
「ワラン・トラバホ(仕事はないよ)」って答えたきみも、立派。マイリン先生に頭撫でてもらってる。
じゃあ、お母さんは、何してる? またにぎやかに手があがる。洗濯する。ごはんつくる。赤ちゃんを抱っこしてる。
それから、おやつタイムがあって、そのあとまた、数字を数えたり、数を書いたり、お遊戯したり。
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タガログ語は、ba be bi bo bu のつく言葉。お花の絵にはbulaklak、 コップの絵にはbaso、ボールの絵にはbola。これくらいなら、私もわかるなあ。
時間が来て、親や姉たちが迎えにくる。書き取りの終わっていない子が、迎えにきたお姉さんに教えてもらっている。
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マイリンのクラスの男の子ふたり、ずっと歩きまわって勉強しなかった子が、残されて叱られている。





1時前、午後のクラスの子どもたちがやってくる。この数年、このあたりでも、車やバイクをたくさん見るようになった。自転車 も。遅刻しそうになった子が、姉の自転車の荷台にのせられてやってくる。Img_1757


午後のジェーンのクラスには、パアラランのネーム入りのTシャツを着た子が何人もいる。毎年クリスマスプレゼントで配るものだから、今年の子はまだ持っていない。兄や姉からゆずられた子もいるが、何人かは、去年もいた子どもたち。学力的に、あるいは情緒的に、まだ小学校に入学するのは無理だ ろうということで、もう1年ここで勉強することになった子どもたちだ。一度小学校に入ったけれどもドロップアウトして、ここで学びなおす子もいる。
授業中はなるべくカメラを向けないようにしているが、ときどきは向ける。するとすぐに、カメラの前でふざける子がいて、こちらも印象的で覚えている。カメラに写ろうとしきりにまとわりついて、レティ先生に叱られている。


マクマヌエルくん。8歳。叱られたのはきみなんだが、私には、カメラ向けて子どもの勉強のじゃまするんじゃないって、私が叱られたみたいに聞こえる。
Img_1769ほら、どうしてくれるよ、きみのせいで叱られちゃったじゃないか。
マクマヌエルは一瞬おとなしく机に向かうが、今度は、私の背中にくっついて歩く。振り向くと、棚の後ろや、机の下に隠れたりするのが、私の息子がスーパーでひとりで忍者ごっこして、帰るころになって、「ママ、ぼく見えなかったでしょう」と得意そうに出てくるのと、すっかり同じで、笑いたくなる。
毎日のように居残りさせられていますが、マクマヌエルくん。おお、a e i o u、ba be bi bo bu は読めますか。しっかり勉強して、来年は小学校へ行こうよ。ここは2年間だけ、3年目は面倒みたくないって、レティ先生言ってるよ。
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2011年8月 パアララン・パンタオ 5

☆ レイとジュリアン

日曜の朝、レイがやってきた。私は9年ぶりに会う。会うんだが、なんてまあ太っちゃって。いいおじさんになっちゃって。ああ、34歳なんだ。

レイとジュリアンは、パアララン・パンタオの最初の奨学生だった。レイは、ここで勉強してハイスクールに行って卒業して、カレッジに進学して、首席で卒業した。それが2003年頃。首席で卒業したが、コネもないパヤタスの子に就職はなかなか難しくて、何年か、パアラランで先生をしていた。
ちょうどジュリアンが、ジェイの会社に就職した2006年頃、レイもパアラランの先生をやめて、仕事を探していた。
その後のことを知らなかったのだが、3年前からMMDAというマニラの政府機関の仕事に就いている。
いま7歳と3歳のふたりの男の子がいる。奥さんはどんな人って聞いたら、「ベリーストロングだ」って言った。

ジュリアンも来ていて、台所でパンシット(という料理)をつくっている。むかし、ふたりが奨学生だったとき、大学に行く前、帰ったあと、必ず学校に寄って、あれこれの用事や給食の準備をしていたのを思い出す。ふたり、台所に並んでごらん。写真撮るから。
ああ、ふたりともすっかり太っちゃって。私、ふたりが台所で並んで撮った10年前の写真をもっているよ。レイが「ビフォー、アフターだなあ」って笑う。ふたつ並べてみんなに見てもらうよ。

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私はうれしい。ゴミ拾いやゴミの仕分けの仕事をしながらハイスクールに通った少年たちが、カレッジを卒業できたこと。就職もできて、家族をもって、暮らしていること。当時、ハイスクールに進学はしても、卒業できる生徒はほとんどいなかった。ふたりはゴミ山で働きながら、自力でハイスクールを卒業した最初の生徒たちで、それだからレティ先生は、彼らの大学進学をサポートすると決めたのだった。支えてくださったスポンサーのみなさまありがとうございます。

レイは、3年ローンでオートバイを買った。
ね、それでドライブしようよ。私を後ろに乗せてって。
実を言うと、私はここで籠の鳥。治安の悪化が理由だが、ひとりではどこにも出してもらえない。それにダンプサイト(ゴミ山)周辺は、いま立ち入りには許可が必要で、まず山には登れないし、勝手に歩きまわってはいけない。
MMDAのネーム入りシャツを着たベリーストロングなボディガードつきならかまわない、ということで、パンシットを食べたあと、長靴はいて、レイのバイクの後ろにまたがった。ぶるるん。ゴミ山のふもとの通りの、レイの家まで。ぶるるん。
4年前に今の校舎に移る前、旧校舎があったところには、ゴミのなかから発生するメタンガスを利用した発電所がつくられている。その向こうはひろびろと、ゴミの山。トラックがゴミを捨てにゆくところは、はるかに高く、はるかに向こうで、見えないが、ふもとには、スカベンジャー(ゴミを拾う人)たちの家やジャンクショップが、ひろがっている。以前よく出入りした家々もあるのだが、バイクはぶるるんぶるるんとゆきすぎる。
バイクのぶるるんがとまる。舗装がとだえると、道はたちまちぬかるみで、レイはバイクを押して、私はバイクをおりて、ゴミの上を踏んで歩く。長靴正解。ゴミを踏むなつかしい足裏の感触。独特のゴミの臭い。向こうに見える山は、ゴミの山です。

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レイのベリーストロングな奥さんはサリサリストアの店番をしていた。とてもしっかりした女の子だなあ、と思った。それから3人で、今度はジュリアンの家まで、歩いていく。坂道のぼる。途中の道では、ゴミのなかから拾ってきたマットレスが一面に道にひろげて干されている。洗って干して、カットして、錬金術ののちは、新しい布にくるまれて新品のマットレスや枕になります。背負って市場に売りに行く。
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ジュリアン一家の、寝室とキッチン、トイレだけの小さな家で、2組の夫婦が長いことおしゃべりしていた。ジュリアンの息子のカイルは2歳。まつげの素晴らしく長いかわいい男の子だが、脳性マヒか何かだろう。いまも寝たきりで動けない。カイルの病院や、薬のこと、リハビリのことなど、ジュリアンの奥さんとレイの奥さんが、あれこれ情報交換していた。
私の従姉の娘が脳性マヒで、ちょうどこんなふうだったが、不思議に表情もよく似ていて、なんだか、すごくなつかしい場所に連れてもどられたような気がする。
「ぼくは立ちたいよう、ぼくは歩きたいよう、ぼくは泳ぎたいよう」
関節が固まらないように、手足をゆっくり動かしてやりながら、お母さんのモッチがささやく。
私にもやらして。カイルくんに、抱っこして頬ずりしてキスする。きみはねえ、ほんとに素敵なお父さんとお母さんをもってるんだよ。

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かけがえがない。かけがえがないという言葉が、浮かぶ。かけがえのない子どもになる。かけがえのない人間になる。
家族や友人が大切で、ありがたいのは、そこで人は、ひとりひとりかけがえのない人間になるからだ。
人が生きるというのは、他者に出会うということのほかではないが、それなら生きることの意味は、出会った他者を、かけがえのないひとりにしていく、ということだ、きっと。そして家族のようになる。

☆ 別荘

それから学校に戻って、お昼ごはんのあと、レイと、ジュリアン一家と、レティ先生と、クレアアンと私、車に乗り込んで、マニラ郊外、バラスというところにある、別荘に向かった。去年、レティ先生の息子のジェイ夫妻が(おもに妻の家の出資で)つくった小さな青い屋根の家だが、休暇を過ごすのに、家族や友人みんなが使っている。 畑もあって、バナナやマンゴーの木も植わっている。
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車の中で、カイルは、えーえー、と泣くような歌うような細い声をあげて、モッチが、小さな声で歌を歌う。運転しているジュリアンが、前の席から声をかける。その声の響きがやさしい。
子どもが愛されているという光景は、それだけで、無条件に至福なんだと思った。たとえそこに、つらいことのあれこれが、差し挟まれているとしても。

山道をのぼっていって、着くと、ペレが出てきて、門の鍵を開けた。ペレは去年まで、パヤタス校で先生をしていたが、いまはここで、敷地内の古い小屋に子ども4人と住んで、別荘番をしている。
ペレが先生をやめたのは、妊娠出産のため。彼女は夫と別れて、息子3人連れてパヤタスに戻ってきて、パアラランで先生をしていたのだが、ある日、子どもの養育費の相談に元夫を訪ねたらしい。養育費がどうなったかは知らないが、4人目の子どもができたことはたしかで、母親の家にもいられない事情があったのだろう、5月からここに住むことになり、6月にはじめての女の赤ちゃんが生まれた。レティ先生は、ペレをここに住まわせて畑の管理をさせることで、彼女の生活をサポートしているのだった。
クレアアンが、ペレの赤ちゃんをずっと抱っこしていた。
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近所の農家の人たちが、とうもろこしをたくさんもってきたのを、袋ごと買って帰った。それをレイが、親の店で売るといって買い、ジュリアンが近所のマジョリー(レティ先生の姪。以前パアラランの先生をしていた)の店で売るためにもって帰り、 残りが私たちのおやつになった。

学校に戻ると、ロザリンは洗濯物にアイロンをかけて畳んでいた。雨季、洗濯物はなかなか乾かないのでアイロンで乾かすのである。
グレースは、ノートに手書きした、学校の経理のレポートを、パソコンできれいに仕上げるように、レティ先生に言いつけられていたが、昼間は遊んでいたんだな、夜になっても終わらず、真夜中過ぎて、私がふと目がさめたときにも、まだやっていて、朝になっても終わっていない。

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2011年8月 パアララン・パンタオ 4

☆ ジェイの計画

土曜の午後、レティ先生の息子のジェイが来て、ジュリアンとレティ先生と私と、一緒にエラプに行く。
エラプ校の近くの空き家では、ラリーさんたちが、壁塗りをしている。この空き家を買い取って使えるようにする。シンガポールのグループの出資。彼らが、フィリピンに来たときの活動の拠点、にするのだが、それ以外のときは、パアラランの活動に使える、という寸法だ。こんなに手入れが必要なポロ屋なのに安くない。お金がないから、ボランティアでやってよ、とジェイがラリーさんに言ったりしている。
お金がない。お金がないので、パヤタス校の給食が今年はない。無理かなって、ジェイが聞く。無理だと思う、と答える。率直に言って、教師の給料を確保できるかも、私は不安なのだ。できる限りのことをする、としか言えないんだけど。
「日本は、震災もあったし、フクシマの事故もあるし、大変だろう」ってジェイが言う。うん、これからもっと大変かも。
「ぼくもがんばってスポンサーを探すよ」っていう。「それともラリー、日本に働きに行こうか、いまはどうだろう、フクシマの原発で働くのがお金になるかな。」

絶句した。だいたい英語できないから私はしじゅう絶句してはいるんだが。
お金がないと、日本に働きに行こうかっていう、それはいつも通りのジョークで、レティ先生なんか、化粧して年ごまかして、ナイトクラブで踊る、なんて言って私たちを笑わせるんだけど、10年間同じジョークを言い続けていたけど、さすがに足が悪くなったり、薬を飲み忘れて倒れたり、するようになってからは言わないけど。
フクシマに出稼ぎに行く。想像すると、絶望感がこみあげる。日本人がそこで働くのは仕方ない。日本で起きたことなんだから。でも、出稼ぎの外国人を危険な原発で働かせる。もしそんなことになったら、日本はおしまいだ。それは倫理の問題としておしまいだ。ということは、本当におしまいだ。

ジョークである。ジョークだが、むかし、レティ先生の2番目の息子が、本当に日本に働きに行こうとしたことはあった。パアラランにお金がなくて、日本で稼いで、学校の資金をつくれないか、と半ば本気でレティ先生も考えていた。私がはじめて訪れた94年、95年頃。来ないほうがいい、と私は言った。来てほしくない、と思った。日本は、外国人労働者を大切にする社会じゃない。ここで、かけがえのないひとりひとりである人たちが、日本で底辺労働者として雑に扱われるだろうと思うと、つらかった。
私がお金を集めればいいんだ、とそのときちょっと思ってしまった、……で、いまにいたる、と。
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話は変わる。「エラプの教室や、この家を使って、若者たちのためのトレーニングセンターを開きたいと思ってる」とジェイ。英会話やパソコンや車の運転や、裁縫や料理や、そういう職業訓練が、若い人たちが仕事を見つけるために必要だ。とはいえ、まったく資金がない。レティ先生は、エラプ校の給食を支援してくれているスイスのグループに、お願いの手紙を書いたが、まだ返事はない。
こういうことは、日本でなら、きっと政府の仕事なんだろうが、ここでは誰も、政府が何かしてくれる、とは思っていない。
学校が必要だ。グループホームが必要だ。トレーニングセンターが必要だ。それは誰の仕事なのか。必要だと気づいた人の仕事なのだ。
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☆ 雨

パヤタス校にもどると、ロザリンは掃除している。えらいなあ。
試験を終えてもどってきたロレインと、クレアアンが、グレースのパソコンをいじっているが、インターネットにつながらない。「ダンプサイトがあるから難しい」って言う。グレースは2段ベッドの上に空き箱をつみあげて、その上に機材を置いて、それで夜中にネットしているんだけど、いろいろコツがあるんだろう。
滞在中2度ほどパソコン使った。途中でつながらなくなったり、バッテリーがきれたり、ここで使うコツを身につけてないとなかなか大変なのだったが。夜遅くに大学から帰ってくるグレースに助けてもらった。

ここはすこやかだったのだ、と思った。それで、私はここが好きになったのだ。心がすっかりなついてしまった。
ゴミ袋に入れて捨てられていた子を養女にして育てるような愛情とか(で、その子のベッドをいま私は占領しているんだが)。近隣のコミュニティであるとか。貧しさというのは、ありのままを開けっぴろげにして、助けあわないと、生きられないということでもあるんだが、そこには何かとてもすこやかなものがある。
もしかしたら日本で、私たちが失ってきたのは、そうして病んでいるのは、このもっとも基本的なところの生命力とか生命感覚であるような気がする。助けあったり甘えあったり気づかいあったり、して生きること。
言葉が不自由だというのは、ここにいるとそんなに問題でもない。声の響きというのは、なんというか、その人の精神のありようを、そのまま伝えてくれるようなところがあって、私はここの人たちの声の響きが大好きだ。率直で、あたたかい。

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昼はかんかん照りだったのに夜は大雨。雨音で何度か目が覚める。雨音にまじって、かすかに声がする。グレースがケータイで誰かと話している。天井を這うヤモリの鳴き声がする。
ふいに、まだグレースが6歳や7歳ぐらいだったころの、雨の日のことを思い出した。ペソの雨が降らないか、ドルの雨がいい、エンの雨ふれ、とか、大人たちがそんなことを言っていたときに、グレースが大きな声で、「レインレイン、カミング」って歌っていた。それから子どもたち、グレースもロレインも、ロレインの姉のジョイやチャイリンも、みんな雨のなかに出ていって、水かけあって、ついでに石鹸で体も洗っていた。
それがいま、グレースは真夜中に、ささやくような声で、ボーイフレンドと電話している。
寝たふりをするよりしょうがない。

……私の上に降る雨は。

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2011年8月 パアララン・パンタオ 3

 

☆ 奨学生たち

私たちは、3人の奨学生を支援している。
ジョシエルはハイスクールを卒業して、カレッジに入学した。
ロザリンはハイスクール3年、ロレインはハイスクール4年に進級した。

Img_16205日の金曜の夜、エラプに住んでるロレインが、母親のベイビー先生と姪のグローリイ(4歳)とやってくる。明日、フィリピン大学で試験を受けるのに、家からだと遠いので、ここに泊まる、という。受験生なのだ。進路はマスコミュニケーションか教育関係に進みたい。上手な英語で喋るなあ。とても聡明な印象の女の子で、成績表ももってるけど、去年はすべての教科が85点以上という、立派さでした。受験生らしく問題集を抱えている。
最初に会ったのは2歳のときで、スリッパを必ず左右逆に履いていた子だったのが、忘れられない。94年頃。
子どもが大きくなるのは、はやいなあ。
試験がんばってね。

 


Img_1679 ジョシエルは月曜の朝にやってきた。レティ先生から、学校で必要なお金や、その週に必要な交通費を受け取るため、毎週やってくる。ニューイラ大学の経営学のコースに進学した。第一志望は教育だったが、それには平均点が85点以上必要で、彼女は82点くらい、すこし足りなくて残念だった。イグレシオ教会の大学で、その大学を選んだのは、彼女の一家は信者なので、授業料がすこし安くなるからです。


☆ 小学生の奨学生たち

土曜の朝、クラスは休みだが、パヤタス校の教室には、4人の子どもたちがやってくる。パアラランで勉強して、シンガポールのグループから奨学金をもらって小学校に通っている子どもたち。ユージン先生もやってきて、ノートを配って、黒板に問題を書きはじめる。なんと補習授業らしい。黒板に書いているのは、英語の複数形について。
けっこう難しそうなのを、9歳10歳くらいの子がやっている。この年齢のころ、私はABCも知らなかった。
フィリピンでは、幼稚園から、タガログ語と一緒に、英語も勉強しはじめる。日本の子どもはかなうまい。

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小学校1年生程度の英語のテキストが欲しいと言ったら、グレースが学校の帰りに、買ってきてくれたんだけど、難しいわ。ぼちぼちと辞書ひきながら、読んでいます。私の小2の子どもには、3歳児向けのワークブックくらいが適当そうだ。学校にあったのをレティ先生が1冊くれた。
勉強は5歳からはじめるのがいい。5歳なら1年間で覚えられることも、9歳や10歳からはじめたら3年も4年もかかる、というのがレティ先生の持論だが、そのとおり、中学生になってはじめて英語を見た私は、アルファベットがおぼえられなくて書けなくて、高校のときには100点満点の8点という、輝かしい成績をおさめたよ。

さて4人の子どもたち、英語と算数をたっぷり2時間半勉強して、ようやくおやつ。
それからユージン先生を囲んで、ミーティング。学校の授業のこととか、話しあっているふうだった。
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☆ 水

金曜の夜、ベイビー先生は、エラプ校の水代や電気代の領収書を抱えてやってきた。
夏休みで使っていない月が、他の月より高くついてるのはなぜか、というやりとりをレティ先生としている。前の月のがずれこんで、2か月分になっちゃったからだと、しばらくしてわかったんだけど。

6日の土曜の朝、断水している。ロザリンは働き者。たらいで洗濯している。洗濯機もあるんだが、水がとまっていると使えないが、とまっていなくても、あんまり使ってないみたい。たらいでせっせとお洗濯。
以前、2週間もそれ以上も滞在していたときは、私もたらいでせっせとお洗濯したが、(ときどき誰かが下手な洗濯をみかねて手伝ってくれたが)いまは長くても1週間程度の滞在なので、お洗濯しない。

以前は水道もなかったし、井戸から水を汲んでくるのもたいへんだったことを思うと、ときどき断水するとはいえ、水道があって水が出るというのは、ゆめのよう。土曜は休日で、みんながいっせいに洗濯するから、ここまで水がまわってこないらしい。でも昼ごろには、水がやってきた。
それで水道の水で手を洗ったら、蛇口が壊れた。ぽきっ。とれちゃった。水が流れっぱなし。ああ、どうしようと思ったけど、ジュリアンが元栓締めてくれて止まった。ジュリアンは、午前中、エラプ校の給食の買い出しに行っていた。
水道、翌日の午後には、ラリーさんが新しい蛇口を取り付けてくれていた。

水。ときどき断水するにしても、大きなポリバケツにためているし、たくさん使ってもいいんだけど、風呂は、バケツ一杯の水ですんでしまう。やかんのお湯を足して、あったかくしてから使うけど、バケツ一杯。きっと体がそのようになじんでいるんだな、きっかりバケツ一杯。

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2011年8月 パアララン・パンタオ 2

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☆学校 
☆パヤタス校

8月5日。朝、学校の裏の道を走るゴミのトラックの音で目が覚める。7時半には、教室にやってくる子どもたちのにぎやかな声。起きようか。Img_1699

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パヤタス校は、今年は109人の生徒が登録した。
午前中(7時半~11時)はマイリン先生のクラスが、5歳~6歳の23人、ジェイン先生のクラスが、5歳~6歳の29人。
午後(1時~4時半)はマイリン先生のクラスが、5歳~6歳の27人、ジェイン先生のクラスが7歳~13歳の30人。
子どもたちのにぎやかな声を伝えられなくて残念。

☆エラプ校


エラプ校は、責任者のベイビー先生と5人の先生たち。
子どもたちの人数を先生たちに聞くと、ひとり増えたよ、とか、ひとり来なくなったよ、とか、数字がなかなか合わなかったが、いまのところ、
午前中は、リザ先生のクラスが、4歳~6歳の27人。マリリン先生が6歳~8歳の27人。ソリタ先生が5歳の27人。シンディ先生が5歳の25人。メイクル先生が4歳の24人。
午後は、リザ先生のクラスが、4歳~6歳の25人。マリリン先生が6歳~8歳の29人。ソリタ先生が5歳の21人。シンディ先生が5歳の24人。メイクル先生が5歳の23人。
全部で252人が勉強している。Img_1574Img_1565

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こちらは、スイスのボランティア団体のサポートで給食がある。といっても人数が多いので、スパゲティやおかゆ、ヌードルなどの簡単なもの。ベイビー先生が調理していた。買い出しはジュリアンが、仕事が休みの土曜日にボランティアでしてくれる。
1階の手前の教室の床がこわれてあぶないので、教室がひとつ使えなくなっている。現地に足を運ぶべきだと思う。床がこわれたことなど、いちいち報告してくれないし。

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パヤタス校エラブ校あわせて、361名が今年も通ってくるのである。
ここで勉強して、公立の小学校に入学するのが目的。1年で難しければ、もう1年ここで勉強する。出生証明などの手続きは、コーディネーターのメイ先生がサポートしている。

☆ グループホーム

エラプ校近くのテリーさんの家は、このあたりのほとんどの家と同じように一間だけの家だが、ひとり暮らしのテリーさんが親代わりになって、家庭が壊れたり親がいない5人の子どもと一緒に暮らしている。行くと、ソーシャルワーカーのユージンが、3人の子に勉強を教えていた。一日のスケジュールが壁に貼ってある。小さな男の子がにこにこと楽しそうだった。どこかで見たことがあると思ったら、ジュリウスくんだ。以前パヤタス校の生徒だった。Img_1557

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08年に二カシオという10歳の男の子と2人の姉が母を亡くして孤児になった。その姉弟をどうサポートするかということがきっかけで、シンガポールのグループの支援で、グループホームを開くことになった。でも二カシオと一番上の姉はもういない。勉強を続ける気がないといって、出て行った。下の姉のジョアンニだけが残って、ハイスクールに通っている。とてもしっかりした印象の女の子だ。
ほかにはいま、姉と3人の弟の4人きょうだいが、そのホームで暮している。3番目のジムボーイも4番目のジュリウスもパヤタス校の生徒だった。父親はいるが母親はいなくて、ジュリウスは朝ご飯を食べられなくて、パアラランで給食を食べるのが最初の食事だった。(2年前の記事 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1251911693&owner_id=5143348)
そのふたりと兄のヘレニトの3人は、声がよいのが気に入られて、いま教会の聖歌隊にいる。水泳もしているが、ジュリウスはとても上手で、指導者もびっくりしているとか。

親代わりのテリーさんはレティ先生の古い友人で、もう65歳くらい。まだ若いソーシャルワーカーの卵のユージンをよくサポートしている。シンガポールへの報告書は、テリーが喋って、ユージンが書くのらしい。
シンガポールのグループはエラプでここのグループホームの子を含めて6人、パヤタスで4人の子どもに奨学金を出している。

☆ リサイクルバッグ

さて、お買いもの。といっても、パヤタス校からほんの100メートルほどかな。同じ通りに、ごみのなかから拾ってきたジュースパックを再利用して、カバンやポーチやペンケースなどをつくっている店がある。このカバンがかわいくて、雨にぬれても平気で、けっこう重宝する。これをバザーで売って、学校の支援にあてよう、というわけで、買います、たくさん。あれもこれもそれも全部ちょうだいって、言えるのはここでだけだわ。毎年ここでのお買いものは楽しみですが、いろいろ工夫もしているみたいで、新製品、出ています。どこかで見かけたら、買ってやってください。おかあさんたち、ここでミシン踏んで内職して、子どもを学校にやっています。で、私はしっかりディスカウントしてもらっていたりする。店の人、レティ先生の勢いに押された感じかも。ありがとう。

レティ先生、足が悪いので、車なしで出かけるのは無理。エラプに行ったり、街に出たりするのに車を運転してくれたラリーさんは、頼りになる友だち。大工仕事も電気工事もなんでもする。往復の車のなかでは、もっぱら日本の震災と原発事故の話をしていた。ロシアのチェルノブィリのようなんだろう、ってラリーさんが言う。パアラランの友人たちは大丈夫かとレティ先生が言う。私が知る限り、大丈夫。誰彼の消息を聞かれる。十数年前の留学生たちのことも。テルは? マクドは?
万が一、この記事を見ることがあったら、テルとマクドは、連絡ください。アテ・レティがとてもなつかしがっている。とても気にかけています。

☆ 放課後

午後のクラスの子どもたちの声を聞きながら、私は昼寝。ここは時間がゆっくり過ぎる。金曜日の夕方、子どもたちが帰ったあとの教室では、ジェーンとマイリンのふたりの先生が、たっぷり1時間半かけて、教室の掃除をしていた。椅子のひとつひとつまで、洗剤つけて磨くのだ。
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むかし、「フィリピン人は怠けものだからね」って言った、だからいつまでも貧しいんだって言いたげだった、フィリピン在住の日本人のことを、思い出したくないのに思い出すが、撤回してほしいと思う。
ここの先生たちは本当に働きものだ。ジェーンもマイリンも、奨学生のロザリンも。本当によく働く。それでいていつも他人のために片手をあけている感じがあって、さりげなくてやさしい。

訂正してほしい。怠けものっていうのは、フィリピン人じゃなくってさ、私のことを言うんだよ。

日本の震災と原発事故のことはみんな知っている。ジェーン先生が、「テレビでツナミを見て、ああ、アテ・カズミは大丈夫かしらって、心配だったのよ」って言う。たどたどしく発音される、ツナミ、という日本語、フクシマ、という日本語。

それがとても痛ましい響きに聞こえる。それは、たとえばジェーンが、その言葉に、ツナミやフクシマに、傷ついて、心を痛めてくれたということなんだけど、日本語が、こんなに痛ましい言葉であるということに、たじろぐ。

こんなにたよりない、こんなに痛ましい、言葉として聞く、母国語。

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2011年8月 パアララン・パンタオ 1

☆マニラ到着

2011年8月4日朝、広島空港から台北経由マニラに向かう。

台北からの飛行機のなかで見たニュースでは、台風で水浸しのマニラが映っていたが、からりと晴れたいい天気。
マニラ上空、飛行機の窓から、近くの湖とゴミの山が見えた。

ジュリアンが迎えに来てくれる。29歳。パアラランの最初の奨学生のひとりだった。
ジュリアンなら、きっと会ったら最初にそう言うと思っていたが、そう言った。「お腹はすいてないか。お昼は食べたか」
大丈夫。飛行機のなかで、2回も食べた。
彼が運転する車に乗るのははじめてだ。渋滞のなかを車はゆっくりすすむ。ジュリアンはもちろん今日は仕事だが、午後は私を迎えに来るのが仕事になった。レティ先生の息子のジェイが会社に言ってくれたのだろう。

昨日まで大雨で、学校も何日も休みだった。今日は久しぶりに晴れたのらしい。学校(パヤタス校)に着くと、クラスが終わったところで、ジェイン先生と、マイリンという新しい先生がいた。レティ先生、表情は明るくて元気そう。でも前夜は頭痛だった。今日はよくなったけど、と言う。Img_1515_3
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学校はパンパンガ通りにある。通りでは、暗くなるまで子どもたちが遊んでいる。この通りでたくさん見るのは、子どもと、野良犬と、犬のうんこ。
暗くなっても遊んでいる子どもたちの声がにぎやか。メンコしたり鬼ごっこしたり。10代の少年たちは、木にくくりつけたバスケットにボールを投げ入れて遊ぶ。それをしゃがんでながめる人たちもいる。
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夜、ジュリアンがビールとバロット買ってきてくれる。バロットは孵化寸前のあひるの卵をゆでたもの。見た目のグロテスクを気にしなければ、食べれるし、おいしい。好きなんだが、たちまち2個食べたが、それ以上は、無理。

7時半。ロザリンが帰ってくる。奨学生のひとり。彼女はビサヤの出身で、ここで住み込みで学校の仕事を手伝いながら、ハイスクールに通っている。今年3年生になった。
以前いたお手伝いさんは(ロザリンをここに連れてきた人だが)いなくなった。去年、レティ先生たちが、日本に来ていた留守中に、レティ先生の服なども盗んでいなくなっちゃってそれっきり。ビサヤの田舎に帰ったらしい。今年は資金不足でパヤタス校は給食もないので、お手伝いさんなしでなんとかやっている。
台所の奥が物置兼ロザリンの部屋だが、数字を書いた紙を一面にひろげて計算している。勉強してるのって聞いたら、あなたのだよって言われた。ああ、それはどうもありがとう。
学校の年間の経理のレポートをあげてもらうようにレティ先生にお願いしているのだが、あれこれ手分けしてやってくれているらしい。それで最後は、レティ先生が眠い目をこすりながらチェックする、と。

10時過ぎ、グレースが帰ってくる。カレッジの3年生。バロットはフライにしてもおいしいよ、と言う。それははじめて聞いた。そういえば去年は、マンゴー入りの巻きずしをつくってくれた。あれはおいしかった。
教室の奥のプライベートルームは、グレース(レティ先生の養女)とクレアアン(レティ先生のひ孫)が使っているが、滞在中、私がグレースのベッドで寝るので、グレースはクレアアンのベッドで、クレアアンは教室にマットを敷いて寝る。いつもそうで、また今度もそうみたい。グレースは夜遅くまで、パソコンとケータイでフェイスブックしたり、友だちと話したりしていた。
青春である。

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奨学生からの手紙

パアラランの奨学生たちから、卒業証書、成績表、手紙が届きました。
ジョシエルは高校を卒業しました。平均が80点以上というすっごい成績です。
いまから十年以上も前、まだ彼女がパアラランに通っていたころ、英単語の書き取りの試験で、私はいつも50点とれなかったのに、彼女はいつも100点満点でした。ほらほらこの子は100点だよ、と自慢そうに答案を見せてくれたクリスティーナ先生は数年前に白血病で亡くなってしまいましたが…。
なつかしいなあ。
あのがんばりやの女の子が、高校を卒業しました。ああ、うれしい。

☆ジョシエルの手紙

2011年4月1日に4年制の高校を卒業しました。スポンサーのみなさんに感謝を述べたいと思います。
私の勉強をサポートしてくださり、本当にどうもありがとうございます。
私は勉強を続けたいと願っており、もしみなさんがサポートを続けて下さるのであれば
学校の先生になりたいと思っています。
みなさんの優しさを願っています。
尊敬をこめて
Jociel N. Caneta

高校まで学資を出してくれたスポンサーさんに手紙送った。嬉しい手紙が書けてうれしい。

もうひとり、ロレインは今年高校4年生になります。この子も平均が85点以上という、目の眩みそうないい成績だ。
はじめて会ったとき、ロレインは2歳で、ゴム草履をいつも、左右逆にはいていた。右左ならべてやっても、自分で反対にして履いている子どもでしたが、いつのまにこんなに賢くなったんだろう。

☆ロレインの手紙

私の勉強をサポートしてくださりありがとうございます。
あなた方のサポートがなければ学校に行くのは
簡単なことではありませんでした。
みなさんのサポートが私を励ましてくれました。
そしてより実りの多い学校生活を送るための希望となり、自分の知識を他の人と分かち合うことができました。
私は、私や他の人たちを助けている日本の人々にとても感謝しています。
パアラランパンタオを代表して、あなた方の国で起きた惨事に私たちが関心を寄せ、みなさんを応援しているということをお伝えしたいと思います。
いつかみなさんに会えますように。
神様の祝福とご加護を。
お気をつけて!
Lorraineより


支えてくださるみなさま、心からありがとうございます。
ジョシエルにもロレインにも大学に進学してもらいたいと思っています。
どうかよろしくお願いいたします。

パアラランへの寄付は
郵便振替番号 00110-9-579521
名称 パヤタス・オープンメンバー
まで、よろしくお願いいたします。

スポンサーのみなさま、お返事等、いろいろ遅れております。ごめんなさいっ。パアラランの終了式は4月はじめにありました。地域の人たちにも開かれた催しで、子どもを学校に通わせようという、啓発の場にもなっています。今は6月からの新学期に向けて、新入生の受け入れなどの準備をしています。

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2011年2月 パアラランを訪問した学生たちの感想

  ☆パヤタス校訪問の感想

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 今回初めてパアララン・パンタオを訪問し、とても貴重な体験をさせていただきました。昨年10月にレティ先生が創価大学で講演をしてくださってから、ずっと楽しみにしていたパアララン・パンタオの訪問では、想像以上に楽しく子供たちと交流することができました。私たちが教室に入った途端、子どもたちが興味津津の目で私たちを見つめ、笑顔で手を振ってくれたことにとても感動しました。交流の時間には、子どもたちとお絵かきや、歌とダンスのゲームなどをしました。言葉が通じない中でも交流を深めることができたことは、私の中で一生忘れることのできない思い出となりました。また、日本とは全く違う環境で学ぶ子供たちでしたが、キラキラの瞳や笑顔は日本の子供たち以上に輝いていました。今回の訪問を通して、今後パアララン・パンタオでさらに多くの子供たちが学べるようになってほしいと思うと同時に、私自身も何か貢献していけるような人材になりたいと思いました。(佐伯優加)

 今回パアララン・パンタオを訪問して、改めて草の根の教育運動がどれほど崇高で意義深いものかを肌で感じました。私はパヤタス校を訪問し、たくさんの子供たちの笑顔に出会いました。彼らの元気いっぱいな姿に心打たれ、周りの過酷な環境を忘れてしまうほどでした。一生懸命に学び、遊び、そして私たちに話しかけてくれるその姿を見て、熱くこみ上げるものがありました。前日まで宿泊先のホテルの一室でパヤタスにはどんなものがあるのだろうと、軽い気持ちで考えていた自分が恥ずかしくなりました。そこには、ただ子どもたちのためにと、尊き奮闘をされているレティ先生をはじめとする先生方と、純粋無垢な子供たちしかいませんでした。以前ゴミ問題を調査したことのある私は、ごみという「モノ」にしか焦点が合っていませんでした。しかし、もっとも大事な「人」という見方を、パアララン・パンタオで学びました。過酷な環境の中にあっても、パアララン・パンタオを通じて地道に「人」を育て、やがてはフィリピンが抱える問題を解消する人材を送り出そうと奮闘される姿に感動しました。教育こそが根源的に問題を解決する武器であり、本質であると、子供たちの姿を通して学ぶことができました。ありがとうございました。(竹中智)

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☆エラプ校訪問の感想

 今回、パアララン・パンタオのエラプ校を訪問させていただきました。パアララン・パンタオでは、元気よく勉強に励む子供たちと交流し、とても元気をもらいました。また、親御さんにもインタビューをする機会を得て、パアララン・パンタオに子供を通わせることで、子供に教育を受けさせてあげたいとの熱意を持っていることを強く感じました。厳しい状況の中でも子供たちは教育を求めており、親もそれを望んでいる一方で、政府からの援助もあまりないままでは、子供たちに教育を施すことができなくなるかもしれません。パアララン・パンタオを巣立った子供たちが、将来世界を変えるリーダーになることだってありえます。パアララン・パンタオの生徒たちには公的援助が必要であると感じました。(菅原 將)

 私たちがエラプ校を訪問した時、真っ白な3階建ての校舎では、子供たちが英語や3ケタの筆算を勉強していました。授業の後子供たちと遊ぶ中で、印象に残ったことがあります。私が子供たちに日本のじゃんけんを教えようとした時、子供たちの母国語であるタガログ語を話せない私は、じゃんけんのルールを言葉で伝えることができませんでした。そこでジェスチャーを使うことにしました。最初、右手でパーを、左手でグーを作り、パーグーに勝って喜んでいる様子を演じました。次にチョキパーで、グーチョキで、と何度か繰り返したのち、ある男の子と実際にじゃんけんをしてみました。日本語で「じゃんけん、ぽい!」と言いながら、男の子が勝った時に私は悔しいそぶりをし、私が勝ったときには喜んだ動作をしました。何度か繰り返すうちにその男の子の顔が輝き、その子自身が隣の子と楽しそうにじゃんけんを始めました。その輝く笑顔は「わかった!」というサインでした。その笑顔に私は感動し、元気をもらいました。こんな純粋で頭の良い子供たちがきちんと教育を受けることができるように、継続的な支援が必要であると思いました。将来、何らかの形で私も貢献したいと思います。(後藤希)

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ホームページのアドレス変更

いままで使っていた無料ホームページが、この11月から有料になるらしいので、別の無料ホームページに移転することになりました。新しいアドレスはこちら。

http://www.fureai-ch.ne.jp/payatas/

よろしくお願いします。旧アドレスの今日までのカウンターは7115(03年から)です。

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2010年度新学期(追記あり)

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2010年度の新学期がはじまりました。

フィリピン大学で学んでいる太田(伸)くんが、知らせてくれました。

6月中旬、新入生の保護者と先生たちのミーティングがあり、いまは授業も始まっています。

今年度の入学生は、パヤタス校が121名、エラプ校が250名。
なんと去年より50名以上多いです。

エラプ校では、入学する際に、簡単な「テスト」のようなものがあり、入学時の子供の能力(アルファベットを知っているか、図形を知っているか、色を分けることが出来るか等)を計るそうです。

写真はパヤタス校。訪問した留学生が、子供たちに「人生で一番大切なものは何か」というテーマで絵を描いてもらっているところ、とか。

一番大切なもの、って突然きかれても、困ってしまうと思う。子どもたち何を描いたんだろう、と思ってきいたら、こんなふうだったみたい。

「ぼくが見ていた机では、最初に、「食べ物は何が好き?」と聞きました。「チキンのから揚げ」っていう答えが大半でした。
「じゃあ、パパとママが好きな人は?」と聞いたら、みんな「うん」と答えました。
そこで、「じゃあ、チキンとパパとママ、どっちがもっと大切?」と聞いたら、みんな「家族」と答えてくれました。
「なんで?」と聞いたら、「チキンはいつも食べれなくてもいいけど、家族はいつもいないと困る」とある男の子が答えてくれました。」(太田君のメール)

ときどき、チキンが出ることもある楽しい給食は、今年は、すこし厳しい。シンガポールのグループが、ずっとパヤタス校の給食を支援してくれていたのだが、支援の約束の期間が過ぎてしまったのだ。(本当はとっくに過ぎてしまっているのを無理してつづけてくれていたのだが。)

なので、現在はエラプ校の給食用の経費を少しけずってパヤタス校に回しているそうです。少し、給食のメニューが質素になった。

ときどきチキンがあるといいんだけど。

ちなみにフライドチキンは、かつて黒人奴隷のソウルフードだったらしい。スラムの人々は、生ものを食べない。新鮮ではなく傷んだものを手に入れる可能性が大きいから。少々傷んでも大丈夫なように徹底的に火を通すのが基本。欠乏するのは野菜。食べてもそんなにお腹がふくれないものを買う余裕は、なかなかない。

(追記)8月現在、生徒数は、パヤタス校129名、エラプ校251名、計380名となりました。

photos by Nobuyuki.O

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パアララン・パンタオ開校20年記念クリアファイル

2_2 ついにできました。
パアララン・パンタオ開校20年記念クリアファイル。 

パアラランの子どもたちがかいてくれた絵をデザインしています。1994年の絵もあるし、2009年の絵もある。

スポンサーのみなさまには、今月か、ひょっとしたら来月になりますが、ニュースレターと一緒に送らせていただきます。待っててくださいね。

1枚200円(またはそれ以上でも可)で販売の予定です。バザーなどで、販売していただける方、また個人的に購入したい方、連絡ください。paaralang@hotmail.com

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パヤタス校 新校舎完成!

Paaralang_pantaopayatas 2007年2月、パンパンガ通りに建設中だったパヤタス校の新校舎が完成し、引っ越しした。引っ越しのため、ほんの一週間ほど休んだだけで、まだ荷物も片付かないなか、クラスは再開した。

引っ越しと、それから旧校舎の管理のために、レティ先生は人を雇った。旧校舎で使っていたものも、窓も戸棚も、使えるものは全部、新校舎で使う。留守の間に、旧校舎がPaaralang_pantaopayatas_2 荒らされてしまっては困るからだった。

この年、給食は、11月頃に資金不足のために一時中断した。パヤタス校は引っ越しのために2月頃も中断した。

(新校舎と新しい看板)

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18年間、使った校舎が、ついに壊されるときがきた。その様子を、ナオちゃんが写真におさめてくれた。レティ先生がとても名残惜しそうだった、と言った。

(取り壊される旧校舎。レティ先生)

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この年、学校の運営はぎりぎりだった。なんといっても2校で300人を超える生徒を受け入れているのである。レティ先生はしばしば息子たちに借金をして、先生たちの給料を払っているというふうだった。エラプ校の増築工事の中断も気がかりだったが、とてもそれどころではない状態だった。

なのに、増築工事を再開する、とレティ先生が言いだした。それもできるだけ早くつくってしまいたい。

北京オリンピックの影響で、資材が高騰を続けているというのだ。これ以上資材が高くならないうちに工事を完成させたい。7月になったら雨季になって仕事がすすまないから、4月5月の夏休みのうちにつくりたい。

そんな無茶な、と思ったが、いつもそうなのだ。奨学金の支給も、給食も、エラプ校の開校も、何か新しいことをはじめる度に、いつも、そんなお金はないよ、と私は思い、レティ先生に言ってもきたが、それが必要だと決めたら、レティ先生は実行してしまうのである。すると不思議に、お金はあとからついてきた。これまではそうだった。

これまではそうだが、今度もそうとは限らない。そうとは限らないが、何とかできないか努力はしてみるべきである。

パヤタス校が新校舎に引っ越ししているころ、私たちは書類をつくっていた。

郵便局のボランティア貯金の配分申請書。その配分をもらっている植林のグループの人が、申請をすすめてくれたのだったが。

この書類を準備するのが、もうなんというか。大変だった。マニラ在住中のナオちゃんに、しばしばパアアラン・パンタオに通ってもらって、引っ越し荷物のどさくさのなかから、設計図や、あれこれの資料を出してきてもらったりだとか、フェンスの値段がいくらで、セメント一袋がいくらだとか、それがまた値上がりしただとか、情報収集にあたってもらったのだが、あのときは、ほんとにありがとう。

設計図も当初のものとは変わってしまっているから、ナオちゃんの情報をもとにこちらでつくらなければならなかったり、運営費を含む予算も詳細に書かなければならないし、ペソを円に換算し、円をドルに換算し、そんなことを、毎晩毎晩やっていた。

書類の準備、夫が手つだってくれたが、何度も何度も、計算のやり直しとか書類の書きなおしとか出てきて、夫は苛立って怒るし、夫の機嫌がどうだろうとしなきゃいけないものはしなきゃいけないので、私もゆずらないし、夜ごと夫婦喧嘩していたよ。

で、全部で80枚ほどにもなった資料を、提出した。200万円、配分してください。

だが数か月後、却下の知らせが届く。事業主体が日本の団体ではないから、という理由だった。現地の人が行っている事業を支援する、というのは、配分先の対象にならないのだそうだ。

そんなことははやく教えてください。だったら、書類なんかつくる必要はなかったのに。夫婦喧嘩もなくてすんだのに。

がっかりしたのはしたのだが、学校の支援をはじめたころから、誰もまともにとりあってくれない、という経験はしたたかにしてきたので、まあこんなもんだろう、とも思った。

5月、現地では、レティ先生はもう増築工事を再開していた。

photos by Naoko O.

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エラプ校へ

Photo_2 エラプへ行った。2000年のゴミ山崩落事故のあと、人々が強制移住させられたあとに、訪れて以来。

あの事故のあと、パアララン・パンタオに通っていた生徒も半数が、こちらに移ってきて、そして教育の機会を失った。それでレティ先生が、分校を開校したのが2003年。その年から私は妊娠・出産でしばらく来れなかったので、エラプ分校は、送ってもらう写真でしか見たことがなかった。

「ウェルカム」エラプ校の隣に住んでいるベイビー先生が、クリスマス休暇の教室に迎え入れてくれた。

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                                   2006年のエラプ分校は、資金不足で増築工事が中断していた。http://paaralang.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-acc9.html

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柱と屋根しかない3階からのながめはすばらしい。ベイビー先生が洗濯ものを干したり、娘のエライジャンが犬を飼ったりしている。「飛び降りるのにちょうどいいよ」と、レティ先生が笑う。

エラプの通りには、3階建てか4階建ての立派な建物があって、壁に大きな十字架のデザインがある。学校だという。外国のNGOがつくった学校だが、資金トラブルで、すぐに閉鎖されてしまった。授業料が、ここの人たちには高かったのだ。月に200ペソといったか400ペソといったか。エアコンのある教室とない教室で、値段も違っていたらしい。

なんでもただでしてもらおうというのはよくない、という考えで、パアララン・パンタオでは、子どもたちは、電気代として、毎日1ペソずつをもってくることになっている。飴玉1個か2個の値段だが、それでももってくるのは半数ほどの生徒にすぎない。

一方には、建物はあるのに閉鎖されている学校があり、一方には、生徒は多いが、建物は工事途中のまま、工事再開できるメドもたたないという学校がある。5分も離れていないところに。使わない建物なら、ゆずってくれないかしらと、ひそかに思うが、思うだけ。

ところで、ベイビー先生の長女のジョイは、看護師のコースにすすんでいたが、大学を休学していた。体も小さく、体力的に困難を感じたらしい。看護師になるのは無理だろう、大学の先生とも相談して、来年から医療事務のコースに変更するつもりだという。休学中、エラプ校でアシスタントの先生をしている。

ジョイの奨学金は、太田君が出していた。彼は今回、奨学金を持参していたが、ジョイが休学しているので、いまは必要ないということになった。

学校の近くに空家があると聞いて、太田君がほとんど衝動的に、その家を買おうと思いついたのは、必要なくなった奨学金の金額と、家を買う手付金が、同じ金額だったからである。

太田君が、家を買おうと思いついたときには、私たちはすでにパヤタスに戻っていたが、善は急げとばかり、夕闇のなか、またエラプまで引き返して、レティ先生はさっそく家のオーナーと話をつけた。

レティ先生名義で、太田君が買った家には、その後、置き場に困っていた7台ほどのミシンがしまわれた。ミシンは94年頃、地域の人たちの経済活動の支援のために(それで学校の運営費もつくろうと夢見た)、日本の人たちの援助で買ったもの。しかしそのプロジェクトは、結果的には失敗して、ミシンは使われず、でもいつか役にたつこともあるだろう、ゴミ山が閉鎖されたら必要になるよ、とレティ先生は信じて、置き場に困りつつも、大事に持っていたのだった。

たぶんいつか、エラプの人たちの手仕事のために、この家とミシンが、使われることもあるかもしれない。今のところ、レティ先生たち、学校の運営だけで精一杯で、それどころでないが。

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ジュリアンの就職

Photo いつだったか、「私はジュリアンがパンツもはかずに走りまわっていたころから知っているよ」とレティ先生は言ったが、ジュリアンは、学校の斜め向かいの家の子どもだった。両親が離婚していなくなり、祖父母に預けられて育った。学校に興味をもって遊びに来る子を、レティ先生は生徒にした。パアララン・パンタオで何年か学んで、小学校に編入した。

小学校を卒業する前かしたあとか、そのころに、祖父母が相次いで死に、身寄りをなくしたジュリアンを、隣人のレメジョスさんが、うちには女の子しかいなくて、息子が欲しかったのだと言って、養子にした。それからは、レメジョスさんの一家が、ジュリアンの家族だ。レメジョスのお母さんは、忙しいレティ先生にかわって、レティ先生一家の洗濯をずっとしていた。姉さんのメリージェーンは、高校を卒業したあと、パアラランの先生を2年ほどしていた。(それから結婚してやめたが、2004年からまたパアラランの先生になった。女の子と男の子、ふたりの子どものお母さん)。「仲のいい家族だ。ぼくは家族をとても誇りに思っている」とジュリアンは言う。

小学校を卒業したジュリアンは、またパアラランで勉強をつづけて、ハイスクールに進学し、卒業した。それまでに、パアラランからハイスクールに進んだ子は50人ほどもいたが、みんな学資が続かず中退して、卒業できたのは、ジュリアンとレイナルドともうひとりだけだった。

ハイスクールを卒業したジュリアンとレイナルドを、大学に行かせる、とレティ先生が言いだしたときは驚いたが、奨学金を出すことになった。学校のいろんな雑用を、レイナルドとふたりでこなしながら、船舶関連のカレッジを卒業した。

レイナルドは卒業時に金メダルをとったし、ジュリアンも優秀な成績だったが、コネもなくコネのためのお金もなく、就職は決まらなかった。

ジュリアンは大学を卒業したあとも、ずっと、パアラランのスタッフとして働いた。給食の買い出し、調理をはじめ、あらゆる雑用を、他の先生たちよりずっと安い給料で、とても献身的に、子どもたちのために働いていた。(写真は、給食の準備をするジュリアン。2005年)

「パアララン・パンタオは、ぼくの人生の扉を開いてくれた」と言っていたが、仕事が見つかるまでは、たぶん無給でも、レティ先生を助けて働きつづけるつもりだったろう。彼の、なんていえばいいんだろう、報恩の気持ち、その行動には、いつも何かしら胸打たれるものがあった。ジェイコーベンの結婚式のときに、教会の坂を、レティ先生の痛む足を気づかいながら、手をひいて歩いていた姿が印象的だった。そんなふうに彼は、レティ先生を支えていた。

ジュリアンの就職活動は、困難つづきだった。パアラランを支援してくれているシンガポールのグループの人たちに好かれて、誘われて一か月シンガポールに滞在し、仕事も見つけてきたが、なぜかビザがおりなくて、海外への出稼ぎをあきらめた。その後、外国船籍の乗組員の仕事を紹介してもらって、オーナーにも気に入られて就職したが、直属の上司が、自分の出身地の人間を優遇したいらしく、何かにつけてジュリアンに嫌がらせをした。ここで働くのは無理だと判断してやめた。

ジュリアンが、ついに就職したのは、ジェイコーベンの結婚式のほんの2週間ほど前だ。ジェイが勤めている貿易関連の会社で、倉庫係を探していて、社長にも気に入られて就職したのだという。

06年12月に就職して、いま(09年9月)もずっとそこで働いている。

一方、レイナルドは、やはり仕事が見つからなくて、パアラランで教師をしていた。もっと収入のいい仕事を探そうとしては、見つからず、戻ってくる、ということを何度か繰り返したのではないだろうか。ジュリアンが就職したあと、しばらくして、レイナルドは学校に来なくなった。また仕事を探しているらしかった(妻子もいるから、もっと収入が欲しいのだろう、とレティ先生は言っていた)。

もっといい仕事を、レイナルドは見つけられなかったみたいだ。しばらくしてまた学校にやってきたが、翌年度、レティ先生は彼を雇わなかった。その後の消息は聞いていない。

photo by Chie O.

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金網の向こう

Photo 裏庭のバスケットコートの上には、小屋が建っている。移住した隣人たちが、ゴミ拾いに来たときに、道に寝て、警官や警備員に追い立てられなくてもいいように、学校の裏に簡単な小屋をつくったのだが、道を広げるので取り壊すということになり、それは困るので、小屋を学校のバスケットコートの上に移したのだった。いずれ、小屋も学校も壊される運命ではあるのだが。

そのバスケットコートの上で、テリーさんと話していたら、「アテ・カズミ!」と呼ばれた。みると、金網の向こうに女の子が立っている。小さい妹を連れて。4年半も来ていなかったのに、私の名前を覚えていてくれたことに驚いたが、私も彼女の名前をすぐに思い出せた。マリーグレース。

レティ先生の養女のマリーグレースと同じ名前。年齢も同じくらい。学校の近くに住んでいて、何年もパアララン・パンタオに通っていた。いつだったか、学芸会のときに、写真をとっていたら、お母さんがやってきて、「あそこで踊っているのはうちの娘なの、写真を撮って」って言ったことがあった。8年ぐらいも前なのかな。いまは17歳になっている。立ち退きで遠くに引っ越したが、ゴミを拾いにここに来ている。抱きしめたいが、金網に隔てられていて、指先をからめるぐらいしかできないのが、悔しい。

この子は、私がここにいない4年半の間も、毎日ずっと、こうやってゴミを拾っていたのだ。

「クムスタカヨ?(元気?)」ときいたら、「マブティ!(元気!)」と答えた。変わらない無邪気な笑顔で。

このあたりの金網(家々を隔てる塀)は、捨てられたベッドのスプリング。

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建設中の新校舎

Payatas4_3 建設中の新校舎を見に行く。すぐ近く。Zamboanga St.からPampanga St.へ。

ほんとうに建設中。今の建物とほぼ同じくらいの広さの建物になる予定。今の教室で使っている窓や棚など、使えるものはそのまま新校舎で使う予定。

後ろの草地はゴミの山。昔は、谷、だった。

Photo_2Photo  Photo_4

Pampanga St.

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蠅の木

Photo_3 学校のまわりは、まるでゴミ山からなだれてきたように、ゴミで埋められ、かつてここに、200世帯ほどの集落があったなんて信じられないほど。

早朝、人々がゴミ拾いに集まってくる。リュックを背負って親子連れで。子どもの手をひいたり、肩ぐるましたり。まるでピクニックに行くみたいに、ゴミのなかへ歩いていく。

14歳未満の労働は禁じられているが、そしてここではわりPhoto_12 と厳しく管理されているようだが、学校の周辺は、いっときのことだろうが、管理も行き届かないようで、小さな子どもたちもゴミ拾いしている。

目の前を数匹の犬が通る。痩せこけて皮膚病で、あわれな姿の犬たちが。ちょうど、フィリピンで犬に噛まれた日本人が、狂犬病で死亡したというニュースがあったばかりの頃で、今まで、気にとめたこともなかった犬たちだが、ここの犬たちが狂犬病でないとはとても思えず、足がすくむよう。息をのんで、犬たちが通り過ぎるのを見送った。

Photo_11 校舎の裏庭に出ると、すごい蠅。エラプの近く、カシグラハンに移住しているテリーさんが来ていて、顔にぶつかる蠅を手で払いながら、片方の目がもう見えないんだ、と言う。手術を受けたが、うまくいかなかったらしいのだった。(写真、左がテリーさん)

Photo_10  風もないのに木がゆれる。枝にびっしりと蠅がとまっていて、その重みでゆれているのだ。校舎のすぐ隣。かつてここには、家族の庭があった。クリスマスのころに、夜、家族で賛美歌を歌う声が聞こえた。井戸があって、いっとき学校で使う水もここの井戸に汲みにきた。水汲みは子どもたちの仕事で、順番が来るまでの間、石蹴りして遊んだりした。

2000年のゴミ山崩落事故、その後の強制移住、また今回の強制移住で、かつてあったコミュニティは、すっかり変貌している。見知らない住人も多いし、治安も悪くなっているから、ひとりで歩いては駄目だという。

Photo_6 テリーさんが一緒に散歩してくれる。道を歩けば、子どもたちに会う。(後ろがゴミの山)

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小さいマリアの家があった。お母さんは熱心なクリスチャンで、教会のボランティアをよくしていた。きょうだいが10人くらいいて、何人かはパアララン・パンタオに通ってきていた。マリアが2歳で亡くなり、それから半年もしないうちに、生まれて7か月のアントニオも亡くなったが、それも10年ほども前のことだ。きょうだいたちの写真をもっている。とても仲のいいかわいい子どもたちだった。みんなもう、大人になったろう。元気かしら。

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結婚式

Photo 2006年12月25日。レティ先生の末息子のジェイコーベンの結婚式に出席するために、4年半ぶりにフィリピンへ。福岡空港から太田君と一緒。

マニラ空港にはマニラ滞在中の直ちゃんや留学生たちが迎えに来てくれていて、一緒にタガイタイへ。タガイタイは、マニラからさほど遠くない、タール湖畔の景勝地。パイナップル畑のなかのコテージに泊って、翌日、丘の上の教会で結婚式。

子どもたちがすっかり大きくなっていて、びっくりする。ジョイとグレースは20歳前後のきれいなお姉さんになっているし、アチバルはすてきな青年になっていて、頬にキスしてくれる。気むずかしい2歳の女の子だったクレアアンは、もう6歳で、8歳になったカイラとふたりで、ピンクのドレス姿で結婚式のフラワーガールをつとめるのだという。

9年間、毎年来ていたのに、4年半も来れなかったのは、妊娠出産したからだった。そして生まれた息子が、もう3歳になっている。当然と言えば当然なのだが、それだけの歳月が、ここの子どもたちの上にも流れていたのだ。

レティ先生が、坂道をジュリアンに手をひいてもらいながら歩いている。足がつらそうだ。膝が痛むのだと聞いていた。歳月はこんなところからも感じられてしまう。

新婦のお姉さんが妊娠していて臨月なので、ゆっくり車を走らせているということで、その到着を待つことになり、結婚式は1時間ほども遅れてはじまったのではないだろうか。のんびりしていて、でもそれは一方で、待つという忍耐強さでもあって、この国のそんなところが、何かしらとても人間的だ。

式の披露宴のあと、パヤタスへ。ケソン市に戻ってきたところで、晩御飯を軽くマクドナルドですませることにする。同じ車に乗りあわせたレティ先生とジュリアン、太田君と私の4人で店に入ると、みながいっせいに振り向く。レティ先生は、緑のドレス姿だし、私は花模様の浴衣姿だし、目立つのはしょうがないか。

Photo_2 ゴミの臭いがしてくる。あたりは真っ暗。家々からもれてくる灯りがない。学校の周辺の建物はもう取り壊されて、なんにもなくなっているのだった。ゴミの山のなかに、学校だけがぽつんと取り残されている。学校は、移転先の新校舎が完成するまでの間、取り壊しを待ってもらっている状態なのだ。クリスマス休暇で生徒の来ない教室は、引っ越しに備えて荷物があふれかえっている。

クリスマス・パーティの飾りつけも、まだそのまま。

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